本報告は、経済統計学会 2014年度(第58回)全国研究大会,京都大学(京都市)「『統計学概論』80年:統計・統計学・社会科学 セッション」で報告したものである。下記のタイトルをクリックするとPDFファイルが開きます。
なお、本報告で取り上げた Halbwachs については、本報告の後、Stéphane Beaud et Gérard Noriel, Race et sciences sociales. Essai sur les les usages publics d’une catégorie, Agone, 2021. で言及されているので、是非とも参照を願いたい。
また、本報告で言及したアルブヴァックスとフレシェがストラスブール大学教員時代(1924年)に刊行した「実証的科学」としての確率論の入門書(Le calcul des probabilités à la portée de tous, Dunod)は、2019年に Presses Universitaires de Strasbourg から、非常に貴重なコメンタールが付された上で、復刻刊行されている。Maurice Fréchet et Maurice Halwbachs, Le calcul des probabilités à la portée de tous, édition critique commentée par Éric Brian, Hugo Lavenant et Laurent Mazliak, Presses Universitaires de Strasbourg.
また、次の論考を参照:
Maurice Fréchet - Maurice Halbwachs. Une rencontre improbable
Journée d’études, ENS-Ulm, 7 octobre 2024
Laurent Mazliak, Anne Lhuissier et Emmanuel Didier
https://doi.org/10.4000/14ame
PDF:
われらの時代の蜷川:Halbwachs, Gumbel, ウエスギ,Foucault(2014年9月10日_ver.4.1) ( 注の17と19の日付の誤りを訂正:1945年を1944年に訂正:2014年9月29日)
なお、当日の報告で使用したプレゼンテーション用のスライドは、下記です。
報告スライド:われらの時代の蜷川(2014年9月13日版)
経済統計学会 第58回(2014年度)全国研究大会 「『統計学概論』80年 」報告要旨
われらの時代の蜷川:Halbwachs, Gumbel, ウエスギ, Foucault
山田 満
亡き人を偲び 夏草の丹波路をゆく(蜷川虎三)
蜷川の欧州留学:ブハーリンとケトレーの間で
伯林にて:ブハーリン読書会に参加するが時代はブハーリン批判へ向かう
蜷川虎三は「統計学並二経済政策の研究ノ為」に1928年の3月から1930年の5月にかけて欧州(主に独逸)に留学する1。当時,在独日本人の間で伯林社会科学研究会がつくられており2,ブハーリンの『史的唯物論』の読書会に参加する3。当時はブハーリン理論が全盛で,社会科学の最高峰に君臨している4。蜷川はそれを「正しい社会科学の理論」として習得する。
しかし30年代に入るとスターリンによるブハーリン批判は激しさを増し、政敵ブハーリンの理論的仕事は「均衡論」として断罪され「弁証法」の名の下に葬り去られる5。蜷川が『統計利用に於ける基本問題』を出版するのは留学からの帰国後の1932年のことであるが,「(蜷川理論には)唯物論はあるが弁証法はない」と梯明秀が批判するのは,蜷川が『統計学概論』を出版する1934年のことである6。
「弁証法」という言葉は joker である。有澤広巳は1930年に『統計学総論』を刊行し7,「偶然性と必然性とは弁証法的見地からすれば同一に帰する」とし8,弁証法の名の下に大量観察への大数法則の適用を正当化する。蜷川は,この有澤の立場を全面否定するが,弁証法論議には関わらない9。
巴里にて:ケトレー『社会物理学』との邂逅
1929年4月末に,蜷川は伯林から巴里に住居を移す10。ここで蜷川はケトレーの『社会物理学 11』を入手し,「小躍りし喜び,…本にかじり」つく12。しかし既にケトレー主義の時代は終わっている13。フランス革命に由来する普遍的人間としての平均人への熱狂は冷め、国民国家を単位とする同種同質的空間への関心が回帰する14。1874年には巴里統計協会の L.-A. Bertillon はケトレーの平均人モデルをひっくり返し、同種同質性を保持した人種に関する測定値の記述的な頻度分布をガウス確率誤差分布モデルから切り離す試みを行う15。関心は人種間に特徴的に現れる分布の差異の記述に移行する16。デュルケイム学派は人種あるいは種という概念枠を飛び超え、社会的出来事・社会的グループという概念枠で事象を把握する方向へと突き進む17。時代はデュルケームの陣営に移行している18。蜷川が巴里でデュルケイム学派と邂逅したか不明である。
Halbwachs:ケトレー主義の終焉とデュルケーム学派
ケトレー平均人の確率モデルへの批判と社会の基本単位としてのグループの登場
アルブヴァックス(1877-1945)は 1912年に学位論文『労働者階級と生活水準』19 の副論文として『平均人の理論』を公刊し,ケトレーの「平均人」概念とその確率モデルを批判する20。「社会」の基本単位は個体ではなく,グループである。グループを分割してもグループが現れる21。グループを構成単位である「個体」に分析的に分割することが可能だとしても,その個体は互いに独立な「窓のないモナド22」ではなく、互いに粘稠的 consistant な繋がりのなかで一体性をなしてグループを形成している23。しかもあるグループに属する個体は同時に他のグループに属してもいる。このような対象を古典的な数学的確率論のモデルの言語に翻訳し表現することはできない。ケトレーが想定する社会的規則性(=平均と偏差)は,マクロソーシャル macrosocial な諸傾向(諸変数)24の結合と離反が産出する不安定な均衡の効果であり、社会はマクロソーシャルな諸変数が互いに結合・離反したりしながら産出する「不均衡な状態から不均衡な状態への推移」の過程である25。
実験科学としての社会学と統計および統計的方法
シミアン(1873-1935)は1921年に巴里統計協会で「実験と証明の用具としての統計」について報告を行う26。1923年にはアルブヴァックスが「統計的実験と確率」を公刊する27。デュルケイミアンは社会の学を「実験科学」として構築しようとする28。実験(expérimentation)とは経験を理論的技術的に統御し、予想結果を経験的事実として所定の方法で観測する過程である29。人文社会では物理や化学のように実験を行うことは難しいが、統計的方法が実験的統御の代替となり得る30。哲学者の戸坂潤は「社会科学における実験と統計」を1933年に公刊し31、論争を引き起こすが、戸坂はシミアンを下敷きにしている32。蜷川の解析的統計集団や統計解析法に関する言説がこれらと関係なしとは言えない33。しかし蜷川の科学観は未だケトレー主義の力学的な科学観・科学法則観に囚われたままであり、統計的法則性に関する観念は出生性比を参照例とするケトレー主義的な法則観に囚われたままである34。
形式主義批判
シミアンは初期のエコノメトリの形成と関わるが、その過度な形式主義化に対し批判的で、対象の概念的構築を重視する概念の哲学に従う。この形式主義批判の流れは Gilles-Gaston Granger に受け継がれるが、大橋隆憲が第二次大戦後に展開した統計学の形式主義化批判と重なり合う35。
正常なものと異常なもの
デュルケイミアンにとって「異常なもの」は「正常なもの(正常な値の区間域)」からの逸脱偏差ではない36。異常なものは「ノーマル」と定義されるものを産み出す過程が不可避に産み出す正常なものである。異常なものを正常なものを産み出す過程の正常な産物として扱い、それを産み出す独自の原因系を掴み制御することが必要である37。正常な区間域から隔たるものとして異常なものを定義し、攻撃排除隔離することは、正常なものの理解と制御を逆に妨げる。異常なものが正常を理解する鍵でもある。
Emil Gumbel:エクストレムな時代のエクストレムな数理統計学者
グンベル(1891-1992)は1928年に論文「階級闘争と統計学」を公刊する38。グンベルは G.von Mayer (1841-1925)の弟子であるが、マイヤーと袂をわかち、ボルトケヴィッチと会う。その後、ハイデルベルク大学で数理統計と経済統計の講義を受け持つ。グンベルのイデーは、マイヤー系譜の国家統計を用いた現状把握を確率モデルをベースに置く数理解析と結びつけることである。数理統計的方法によって統計の自然的社会的限界性に対抗し39、数理統計学の数理論理性と国家統計の事実性によってナチの第三帝国の言語40へ抵抗する41。
1933年、ナチスが政権を取り、グンベルはハイデルベルグ大学を追われ42、1934年にMaurice Fréchet の招きでリヨン(仏蘭西)に亡命する。フレシェは、アルブヴァックスの元同僚であり43、確率論・レヴィ飛び跳ね(sauts de Lèvy)で知られるPaul Lévy と親しい数学者・数理統計学者である。グンベルはリヨン時代に、フレシェの影響もありextrême な値の問題に出会う44。エクストレムな値域は、一般に Top coding や Outliers の対象とされ、異常なものとして分析から除外され、確率0の値域として処理されてきたが、ガンベルはエクストレムな値を固有な特徴(分布特性)をもつ値として捉え、その確率分布の問題に取り組む。こうした関心は集中度や経済波動の分析とも関連しグンベルの1928年プログラムと結びつくが、1940年の米国への亡命もあり45、結びつきは絶たれ、プログラムは棚上げされる。エクストレムの統計理論は治水などのリスク管理工学の領域に閉じ込められる46。蜷川がグンベルと出会わない理由はないのだが、繋がりは不明である。
ウエスギ:蜷川ゼミのアウトサイダー
1936年、東京帝国大学を退学した上杉正一郎は不本意ながら京都に向かう。紫野の大徳寺正受院に預けられ京都帝国大学に入学する。京都での世話役は蜷川虎三である。蜷川の監視の目を潜り抜け大内兵衛など東京帝大グループと連絡をとる一方、京都では長谷部文雄の資本論研究会に参加する47。
1937年、上杉は蜷川ゼミに参加する48。上杉の蜷川に対する態度は微妙である。大橋のように体系的内在的に蜷川を読み批判的に継承することに上杉はあまり関心がない。上杉にとって蜷川を読む基準は『資本論』であり、関心の的は現体制の批判、資本主義の批判である。蜷川をそのような文脈で読み、蜷川が提示した統計の吟味批判のための概念装置を、その文脈のなかで利用しようとする。統計の階級性批判である。利用論においても統計利用の首座は社会科学の理論であり、統計学ではない。統計学が首座となるような規範的な統計利用論というものはない。統計・統計学批判の有効なツールとして蜷川の信頼性概念を借用する上杉は、大屋祐雪に不徹底であると批判されるが、大屋理論には階級闘争のモメント=利用者の立場が欠けていると交わす。
Foucault:近代国家の統治技術としての統計技術の誕生とリベラリスムの統治技術
1975年夏から1977年夏にかけて西欧思想史家の今村仁司は巴里に留学する49。当時、巴里ではコレージ・ド・フランスでフーコー(1926-1984)が1970年以来断続的に講義を行っており、1971年から1973年にかけての講義を基に書かれた『監視することと罰すること:監獄の誕生』Surveiller et punir: Naissance de la prison が出版されたばかりである(1975年2月刊行)。今村が巴里に滞在していた1976年の1月から3月にかけてはフーコーにとって新しい出発点となった講義『社会を防衛擁護しなければならない』が行われ,今村はフーコーに大きな刺激を受けている50。今村は帰国直後(1977年の夏)に筆者(山田)にフーコーの講義が統計学とどう関わるかを語り,フーコーを読むよう勧めている。このフーコーの一連の講義は統計・統計学を主題とするものではないが、近現代という時代の営みを問い直すイデーの宝庫であり、統計(計測すること,調査検診試験 examenすること,表 tableauという形式で表現すること)や統計学(統計的規則性,確率,統計的制御調整)という知の形式・技術が近現代において主要な形式・技術としてなぜ登場し,どのように近現代という時代を形成したのかを考えるヒントを与えているのである。フーコーは『監視することと罰すること』で17世紀から18世紀にかけて登場してくる規律化・分類秩序化 disciplinerする権力の作動について説き,規律化のテクノロジー technologies de disciplineとしての統計学(社会統計学)について考える材料を提供し,1976年3月17日の「社会を擁護防衛しなければならない」講義で18世紀後半以降に明確な形をとって登場してくる新しい権力作用の様式,調節し適正なものとして過程を規則化正規化 régulaliserする権力の作用について説き,調整正規化しプロセスを予測制御するテクノロジー technologies de régulation としての統計学(推測統計学)について考える材料を提供しているのである。正規化のテクノロジーは規律化のテクノロジーに取って代わるのではなく,規律化のテクノロジーの上に重層的に分節化される形で登場するのである。
フーコーの「社会を擁護防衛しなければならない」講義で提示された正規化のテクノロジーについての講義は1978年1月から4月にかけて行われた講義「治安,領土,人口」に,次いで1979年1月から4月にかけて行われた講義「生政治 la biopolitique の誕生」(この講義はネオリベラリスムの権力作用を主題にしている)に受け継がれ,展開していく。
結び:われらの時代の蜷川はいたるところにいる。
[注記]
1 蜷川は1928年3月15日に神戸港を出港し、スエズ運河経由でマルセイユに上陸し、1930年5月2日に,繁栄の残照と恐慌の悲惨さが共存するニューヨークを経由して帰国している。留学の目的は「統計学並二経済政策の研究ノ為」で,さしあたりの留学先は伯林の景気観測研究所(所長 ワーゲマン;1925年創設)であった。とはいえ,定まった研究主題はなく、欧州の統計学研究の現状を探ることから研究を始めている。蜷川が夫人宛ての手紙に「統計のいい書物を手に入れたから当分それに就いて勉強するつもり」と書いたのは8月のことであるが,それがどの書物を指しているかは定かでない。細野武男・吉村康『蜷川虎三の生涯』三省堂,1982年刊を参照。
しかし,これは蜷川がワーゲマンの景気変動の統計的研究に興味を示さなかったということではない。伯林景気観測研究所は当初,ハーバード方式に倣った解析から始めているが,ハーバード式を批判し次第に独自の解析法を確立していくが,蜷川は留学中にその過程を追っている。蜷川虎三「統計学の課題としての景気変動の研究」京都帝大『経済論叢』第32巻1号(1931年1月)を参照。ハーバード法とその批判,ワーゲマンの独自性については,André Marchal (1948) Économie politique et technique statistique, troisième édition, Librairie générale de droit et de jurisprudence. マルシャル『経済学と統計技術』大橋隆憲 監修訳、ミネルバ書房、1959年刊(原著第3版、1948年の日本語訳)の第3部,第3章を参照。
2「加藤哲郎作成 ワイマール末期ドイツの日本人:ベルリン反帝グループ関係者一覧」(ウェブサイト「加藤哲郎のネチズン・カレッジ」より)を参照。蜷川が留学した1928年春以降,伯林にも思想検事が常駐することになり,外事警察による留学生にたいする監視の目も厳しくなる。開放的な雰囲気の社会科学研究会は開催しづらくなり,留学生たちは逆に政治的に先鋭化し,反帝グループの形成に向かう。そうしたなかで蜷川は1929年4月に伯林を離れ,巴里に移る。
3 堀江邑一の記録による。『現代社会学体系7 ブハーリン 史的唯物論』青木書店,1974年刊に添付の月報を参照。堀江が帰国するのは9月なので少なくも蜷川は留学当初、研究会に参加しブハーリンを読んだことになる。なお,有沢広巳は蜷川と入れ違いに帰国している。伯林で蜷川が頼ったのは国崎定洞(東京帝大助教授)だったようである。国崎は社会衛生学を社会科学として確立しようとしていたようであるが、その後,帰国を断念しモスクワに向かうことになる。
4 ブハーリン理論は「均衡 équilibre」概念をキー概念に用い,「外生的ショック(あるいはシステム間コンフリクト)」による均衡の攪乱と新しい条件下での均衡の再確立の過程として社会的変動を因果関係の相の下で説明する極めてモダンな理論である。ブハーリンはローザンヌ時代に「均衡」についての着想を得たといわれる。
5 スターリンによるブハーリン批判が始まるのは1929年から30年にかけてであり、並行して行われたデボーリン批判と合わせて、1931年には哲学におけるスターリン体制が確立される。
6 梯の場合には西田哲学の影響があり,スターリン体制と直接に関連づけることは難しいが,「時代の風潮」は否定しえない。
7 有澤広巳『統計学総論』第1章,改造社版経済学全集 第35巻『統計学(上)』1930年刊に所収。蜷川は同書にたいする書評「経済学全集『統計学』を読む」(『経済論叢』第31巻4号 1930年10月 京都帝国大学経済学会)を書いている。
8 有澤は同書で「大数においては,個々的場合に付着せる特殊偶然性が著しく希薄となり,之に反して恒常的典型的性質がその輪郭を現しはじめる」と書いている。
9 内海庫一郎が弁証法の「複雑性」のモメントを全面に押し出し蜷川における「弁証法の欠如」を攻撃するのは第二次大戦の後のことである。内海は弁証法について語らない蜷川を評して弁証法を理解していないと断じたが,蜷川は弁証法について語ることをあえて避けたのである。弁証法の名において有澤と論争することは好ましくない結果を招いたことだろう。蜷川虎三は亡くなる直前の座談会で「それは歴史的なものであって,当時はそれを真正面からだせる時勢ではなかった」と手短に語っている(「蜷川虎三経済談議・私の経済論」『経済』1979年1月号)。内海も晩年このことを認めている。
10 巴里での蜷川の行動については不明であるが、1929年10月に「所謂『経済統計学』に就いて ― 郡菊之助氏に答う」(『経済論叢』京都帝国大学経済学会、第30巻5号、1930年5月)を巴里で執筆している。同論文は統計的研究は統計学の学的対象であるかをめぐる郡との激しいやりとりで、統計学を方法に関する科学として確立しようとする蜷川の強い意思を示している。
11 A. Quetelet,(1835) Sur l'homme et le développement de ses facultés, ou Essai de physique sociale, 2 tomes. Paris, Bachelier. なお、同書は、第二版でサブタイトルとタイトルが入れ替えられ、ケトレーによる第二版への前書きとLa société royale de Londres の Sir John F-W. Hershel による長大な序文 « Sur la Théorie des Probabilité et ses applications aux sciences physiques et sociales » (1850) が付された上で、Essai de physique sociale というタイトルで1869年に再刊されているなお、追加された Hershel の序文は、今日に至るケトレー読解を方向づける貴重なものである。
12 細野・吉村 前掲書。蜷川にとっては学生時代の夢がかなったということのようである。
13 ケトレーの社会モデル(平均人の確率分布モデル)は、同一物を多数回測定した時に得られる測定値の分布(測定誤差分布=ガウス分布)を人間社会集団(masse)を構成する個体の測定値の分布にすり替えるというアクロバティックな操作の上に成り立っている。その際に用いるのがアポロンの彫像(理想的な青年男子像 オリジナル)とその複製というイメージである。今ここにいる個々の人間達は単一のオリジナルな人間(平均人=理想=神)のコピーに過ぎず、そのコピーの際に発生する複製ミスが個性である。個性を持つ個体はオリジナルとの関係において同一性を保持し調和(均衡)するが、互いに独立な個体である。ゆえに,この個性の分布は誤差の分布と同じ規則で分布している。ケトレーがアポロンの彫像を持ち出すのは西欧美学の伝統に基づくが,おそらく計測原器とそのコピーのイメージが彼の社会モデルの基礎にある(測定における標準化と規準化が国際統計会議の課題であった)。哲学的に見れば、これはライプニッツの窓のないモナドが作り出す予定調和モデルである。ケトレーの時代に要請されていたのは「二重革命」によってもたらされた旧秩序の崩壊から新たな社会的安定性 stabilité を取り戻すことであった。あらゆる局面においてstandardisation(標準化)とnormalisation(規範化)が要請されていた。
ここでライプニッツ・モデルについて、山本義隆の文章を引用しておく。「ラッセル(『ライプニッツ哲学の批判的注解』)によれば,ライプニッツ哲学は,(1) すべての命題は主語と述語を持つ,(2) 主語は,さまざまなときに実在するような述語をもちうる ― このような主語は実体と呼ばれる,(3) あるときに実在を主張するということのない真なる命題は必然的・分析的であるが,特定のときに存在を主張する命題は偶然的・綜合的である,(4) 自我は実体である,(5) 表象は外界の知識を生み出す、という五個の前提から論理的に演繹される。したがってライプニッツにとっては,数学と論理学の命題は必然的・分析的であり自同律と矛盾律のみから導かれるが,他方,因果律や運動法則のような実体にかかわる命題は偶然的・総合的であり充足理由律をも必要とする。」山本義隆(1979)「訳者あとがき」、エルンスト・カッシーラー『実体概念と関数概念』みすず書房刊、pp.439―440(引用文中の「表象」はラッセルの英語原文では perception,「充足理由律」は final causes であるが、山本はライプニッツに則して訂正している。また、「偶然的」は英語原文では contingent である)。ラッセルによればライプニッツの窓のないモナド論は、この五つの前提から論理的に演繹できる(実際に,演繹できると思われる)。
14 ケトレー(1796 ― 1874 )自身、最晩年には「平均人」から「人種 race 」へと関心を移している(ケトレーの書簡集)。
15 Louis-Adolphe Bertillon は環境による決定というコント的実証主義のイデーに基づき環境学 mésologie を創始した医学者・形質人類学者で,ケトレーを批判し,平均値を次のように分析的に区分した。(1)「自然的」な同質同種的 homogène なグループ(typique)の平均値(これを moyennes typiques と呼び,確率モデルの適用対象から外す),(2)確率変数として扱えるよう「人工的」に集められた集団(agrégat 異質物の集合体)の平均値,(3)同一対象物を多数回測定した結果数値の集合の平均値。次の文献を参照。
Eric Brian(1991) "Les moyennes à la Société de Statistique de Paris(1874―1885)", in J.Feldman, G.Lagneau, B.Matalon, eds., Moyenne, Milieu, Centre: Histoires et Usages, Édition de EHESS. Stéphane Callens(1991)"Les moyennes positivistes", in ibid. 及び Christian Walter (2013) "3. Multigestion et théorie des types" in C.Walter, Le Modèle de Marche au Hazard en Finance, Economica. また,アングロサクソン的観点からであるが、Libby Schweber(2000) "Styles of Statistical Reasoning: The French Liberal Tradition Reconsiderd", in Jean-Pierre Beaud et Jean-Guy Prevost, sous la dir., L'ère du chiffre: Système statistiques et traditions nationales, Presses des L'Universite du Québec. 及び Libby Schweber(2006) Discipling Statistcs: Demography and Vital Statistics in France and England, 1830—1885, Duke University Press がある。
なお,ケトレーが準拠するのはラプラスの天体力学だけでなく,フーリエ Joseph Fourier(1768―1830)の『熱の解析的理論 Théorie analytique de la chaleur, Paris, 1822』 であるが,この時代には物理学ではなく,化学や地質学(層序学)がモデル・サイエンスとして登場してくる。時に混同されるが,ほぼ同時代人の哲学者 Charles Fourier(1772―1837) とは別人である。
16 人種(人種間の戦争 la guerre des races)という概念の名の下に,ケトレーの平均人概念を断罪する代表的人物は医学者・形質人類学者の Paul Broca(1824―1880)である。なお,ゴールトンらアングロサクソン系の優生学的研究においても遺伝的優劣の名の下で関心は平均から散布 dispersionsへと移行する。平均(真なるもの)が消去すべき誤差として変動を生み出すのではなく,変動が平均を生み出し規定する。リアルなものは平均のほうではなく、変動のほうである。しかし変動は結局のところ中心(平均)の周りに調和的に分布すると観念され,平均がリアルなものとして回帰する。散布は deviations という観念に回収され、ガウス分布で処理できるという観念が残存する。ガウス分布には正規 normal 分布という名前が与えられ、自然化される(ゴールトン自身は「平均値に関係付けられる偏差=逸脱の法則」と名付けている)。リアルなものとしての変動は肯定されるべき対象という地位を追われ、技術的工学的に制御され、統治されるべき対象へと変換される(normalisation, standardisation)。J.Feldman, G.Lagneau, B.Matalon, eds., Moyenne, Milieu, Centre: Histoires et Usages, Édition de EHESS, 1991 に所収の G. Ramunni, "Francis Galton et la notion de myenne", C.Lenay, "Galton: explication de l'emergence de la moyenne". を参照。なお、人種に関する諸言説の歴史については,Ali Rattansi(2007) Racism: A Very Short Introduction, Oxford University Press を参照。
17 この時代にデュルケイミアンが社会的出来事 fait social・社会グループ groupes socialesという概念枠を持ち出し科学的社会学 sociologie scientifique という学術的知の領域を創始しようとするのは,単なる認識論上の関心からではない。人種・人種間の戦争という言説に対抗する知の領域(対抗言説)を打ち立てることが,そこには賭けられている。世界は,その後,人種(人種間の優劣・戦争)という概念の名の下に国家を統合するナチスが登場し国家権力を掌握する。アルブヴァックスが1944年に巴里でナチスに拘束され1945年に強制収容所で死亡するのは彼の個人的な理由からではない。人種間の戦争に関する言説の分析については, Michel Foucault (1976) IL Faut Défendre La Societé: Cours au Collège de France 1976, Gallimard/Seuil, 1997 を参照。
18 間大戦期を仏蘭西デュルケイム学派の「冬の時代」と捉え,むしろ米国の Talcott Persons の機能主義的社会学に受け継がれたとする見方があるが,そうした見解に与すわけにはいかない。
19 Maurice Halbwachs (1912) La classe ouvrière et les niveaux de vie. Recherches sur la hiérarchie des besoins dans les sociétés industrielles contemporaines, Paris, Alcan.
この著作は,独逸帝国統計局および独逸金属労組の家計調査の個票データを分析した研究である。また,この研究に先立ち,巴里に於ける土地収用と土地価格の関連を分析した統計的実証研究 Les expropriations et le prix des terrains à Paris(1860-1900), Cornély. を著している。
なお,アルブヴァックスは高等師範学校で哲学(ベルグソン)と数学を学び,1907年にはライプニッツ論を書いている。彼がデュルケイムと出会い社会学の研究に向かうのは1905年であるが、1909年にはマルクスを研究するため独逸(普魯西)に留学している。1944年5月にコレージュ・ド・フランス教授に就任するが,就任直後に巴里でナチスに拘束され1945年3月に強制収容所(Buchenwald)で死亡する。Pierre Bourdieu (1989) "L'assassinat de Maurice Halbwachs", in Visages de la Résistance, dossier de la revue La Liberté de l'esprit, no 16, automne 1987 を参照。
20 Maurice Halbwachs (1912) La théorie de l’homme moyen. Essai sur Quetelet et la statistique morale, Paris, Alcan.
コント(Auguste Comte, 1798―1857)以来,コント的実証主義は周辺環境 milieu ambiant(存在の諸条件)による決定を重視する。実証主義の立場からは、ケトレーのように環境の差によって生じる差異を確率的に変動する誤差とみなし、平均的なものを祭り上げて原因(定常原因)の側に置き,環境を撹乱要因(非定常原因)の側に格下げしてしまう平均人概念は受け入れ難い。さらにコント自身は具体性を重視しており,平均をアブストラクシオンとして軽蔑し,確率モデルの導入を拒絶する。ケトレーの統計学が平均の統計学だとすれば,実証主義の統計学は比較 com-paraisonの統計学である。アルブヴァックスやシミアンらデュルケイミアンはコント的というよりはモンテスキューの「政治の科学」(Louis Althusser)の実証的精神の系譜を引くと思われるが,彼らにとってこの時代に課題として立ち現れたのは,実証主義的精神の下で、社会の複雑性を犠牲にすることなく数理・確率モデルをどう社会の研究に取り込んでいくかということにあった。実証主義という言葉は過度な単純化,形式主義や還元主義に対する反意語でもある。
21 “masse” ではなく,”group” である。アルブヴァックスは,個票データの詳細な分析により 547の労働者世帯を48のグループに分割している。
22 「窓のないモナド」は互いに他を自己の鏡に映し合いながらも他の影響を受けることはなく各自が自己の保存と発展のために独立自尊に動く。
23 アルブヴァックスのアイデアは「集合的記憶 mémoire collective」の形成についての彼の理論に良く示されている。この理論は「集合的期待」の形成とそのフォンクショヌマンについて考えるときに示唆的である。
24 "macrosocial", "microsocial" という用語は Alan Desrosières から借用した。なお、Raymond Boudon によれば、アルブヴァックスは Paul Lazarsfeld の多変量解析への道を用意したと評価される(Paul F. Lazarsfeld, On Social Reseach and its Language, The University of Chicago Press, 1993 へのブードンの序文)。ラザースフェルド自身は人文社会科学的対象への確率論の適用を擁護するために、イベント間の独立性を盾に取ったアルブヴァックス(デュルケイム学派)によるケトレー批判は、その後のストカスティック過程モデルの進展により克服され、当たらないと、ややトリッキーな例を示しながら批判し、ケトレーを擁護する側に回っている。"macrosocial"なものと"microなもの"との関係性を"micro"の側から数理的にモデル化して、その影響関係を測ろうとしていたラザースフェルドにとってアルブヴァックスのような考えは認めるわけにはいかないのである。しかし、アルブヴァックスはラザースフェルド的知性では捉えられないことをイメージしているように思われる。アルブヴァックスにとって社会史は"複雑性"の世界であり、確率概念によっては馴化不可能な荒々しい唯物論的=突発的イベントが生起する世界である(この点で,アルブヴァックスはシミアンとも異なる)。「Un Coup de Dés jamais n'abolira le Hasard(賽子の一擲は決して偶発性を廃棄しないだろう)」(マラルメ)
25 こうした考えについては,アルブヴァックスよりもシミアンのほうが鮮明である。基底的な安定性を重視するかに見えるシミアンに対してアルブヴァックスは一層複雑性を重視する立場にたっている。
26 "la statistique comme moyen d'expérimentation et de preuve", Journal de la Socitété de statistique de Paris, fevrier 1921. François Simiand (1873―1935) は翌年に「統計と経験:方法に関して」を公刊する(François Simiand (1922) "Statistiqu et Expériance: Remarques de Méthode", Libraire des Sciences Politiques et Sociales, Paris. )。
27 Maurice Halbwachs (1923) "L'expérimantation statistique et les probabiliés", in Revue Philosophique, 96.
28 シミアンの立場は明確で、実証科学としての人文社会科学と自然諸科学との間には科学方法論上の基本的違いはなく、その違いは程度の差に過ぎない。シミアンが彼の立場を明確に示した文献として次のものがある。“ Méthode historique et science sociale. Étude critique d'après les ouvrages récents de M. Lacombe et de M. Seignobos (1903)” in Revue de synthèse historique,1903. シミアンはラブルース(Ernst Labrousse 1895―1988)を介して仏蘭西アナール学派の統計的手法を駆使した計量的歴史学に大きな刺激を与えた(Jean Bouvier(1977) "François Simiand, la statistique et les sciences humaines", INSEE, Pour une histoire de la statistique, tome 1/contributions, INSEE/Economica.及び 竹岡敬温『「アナール」学派と社会史』同文館,1990年)。
なお、シミアンについては,杉森滉一「”社会学主義”と統計」岡山大学経済学会雑誌 3巻1号 1971年6月刊 が綿密な考察を行い,否定的な評価を与えている。しかしシミアンやアルブヴァックスの実験科学としての社会学にかんする論議は,戸坂潤らの論議と合わせ、今日的観点から読み直され再評価される必要がある。杉森もこのことに同意するはずである。
29 実験(expérimentation)とは理論的知識に基づき経験を技術的にコントロールし、理論的に予想される諸結果を産出し、それを経験的事実として所定の装置と方法で観測する理論的技術的過程である。デュルケイミアンにおける実験的理性(重きを置かれるのは実験的方法ではなく、実験的理性である)については、Jean-Michel Berthelot(1995) 1895 Durkheim: l'avènement de la sociologie scientifique, Presses Universitaires du Mirail. を参照。
30 事実の選り分け、統計的手法による系列の要因分解やランダムネスを仮構したシミュレーションやχ二乗検定のような統計的検定手法,等。
31 戸坂潤『現代のための哲学』大畑書店、1933年刊に所収(同書は『現代哲学講話』と改題され、改訂版が翌年に白楊社から再刊されている)。関連して,同書に収められている「自然科学とイデオロギー,現代物理学における危機は何を意味するか」を合わせて読むべきである。
32 戸坂は、F. Simiand(1931) "De l'experimentation en science économique positive", in Revue Philosophique を参照しているが、戸坂の議論の多くにシミアンの痕跡を読み取ることができる。なお,内海庫一郎によれば,戸坂は蜷川と個人的に親しい関係であったという。
33 蜷川は帰国直後の1930年9月に執筆した「経済学全集『統計学』を読む」(『経済論叢』 京都帝国大学経済学会、第31巻4号 1930年10月)のなかで、有沢広巳論文を批評しながら、おそらくは同書の小倉金之助論文を意識して、次のように書いている。「自然科学の各部門に於いて、その実験(観測)測定法を有っている。かかる研究方法に従って得た測定値は、所謂、実験式を導き出す素材として与えられる。我々の社会の実験式の素材は統計である。統計は大量観察法に依って得られる。然らば、斯かる測定値或は統計に依る実験式の誘導は如何にして可能であるか、ここに、社会科学にも自然科学にも用いられると云う所謂統計的方法、統計の数学的解析の方法がある。私の統計解析法と云うのは、これを主要内容とする。」(144ページ)時間的前後関係で言えば,この蜷川の言明は戸坂の実験に関する論文よりも先である。
なお、蜷川が巴里に滞在するのは1929年であるが,ガストン・バシュラールが測定や実験といった科学方法論上の諸観念(諸概念)を問い直し,科学認識論的研究(épistémologie)に新時代を切り拓く博士論文をソルボンヌに提出し,巴里で注目されるのは1927年のことである(Gaston Bachelard, Essai sur la connaissance approchée, Vrin. 豊田彰・及川馥・片山洋之介 訳『近似的認識論試論』国文社,1982年刊)。例えば,同書においてバシュラールは次のように書いている。「実験的探求は,したがって演繹の連続性とか観察の連続性とはまったく別の,決定的な試みによって貫かれている。ひとつの理論の検証は…。それは推論のすべの道が収束する地点におかれた実験である。それは現実的なものと理性的なものによって誘発された接点である。」(訳書 p.330)「…検証はあらゆる次元において現実認識を決定する瞬間なのである。検証は表象の要素,それも有機的な要素であり,<présentation> が <représentation> となるのは検証によるとさえいうことができよう。…世界は<わたしの検証>なのであり,世界は検証された観念によって作られている。…現実についてのわれわれの可能な唯一の定義は検証の言語でなされなければならないのだ。この場合 現実の定義は決して完全にはならず,決して完成されることはない。」(訳書 p.332)
34 蜷川は、統計的方法によって対象を研究することによって得られる時空に制約されない数量的な規則性・安定性を統計的法則と理解し,その安定性の強度に関心を集中している。今日、統計的という言葉で通俗的に理解されるように、パラミータの値を決定論的に与えることができないのなら(せめて)その値を確率を与えて推測しようということでも、対象自体がランダムな振る舞いをするのでそれに相応しい形式の法則性を与えるというのでもない。蜷川の統計的法則観に関する批評的考察として、上杉正一郎「出生性比について」と内海庫一郎「『統計的法則』に関する諸考察」,いずれも『蜷川虎三先生古稀記念 現代の経済と統計』有斐閣1968年刊に所収、がある(いずれの論考も社会科学における法則性とは蜷川が考える統計的法則性とは別種のものであることを主張している)。また,戦後蜷川統計学の標準的教科書として書かれた『統計学(改訂版)』(内海,木村,三潴 編,有斐閣,1976年刊)の「第4講 統計と法則」(内海庫一郎が執筆担当)がある。なお,出生性比とその規則性(という観念)をめぐる最近の思想史的研究として, Éric Brian et Marie Jaisson (2007) Le sexisme de la première heure: Hasard et sociologie, Édition Raison d'agir がある。
35 大橋隆憲・野村良樹 共著『統計学総論 上』有信堂、1963年刊。また、大橋には次の翻訳書がある。André Marchal (1944) Économie politique et technique statistique, Librairie générale de droit et de jurisprudence. マルシャル『経済学と統計技術』大橋隆憲 監修訳、ミネルバ書房、1959年刊(原著第3版、1948年 の日本語訳)。マルシャルの方法論上の立場は「社会経済学・経済社会学」であり、デュルケイミアンと通底するところが多い。
36 偏差はアングロサクソンでは deviation 逸脱であるが、仏蘭西ではécart 隔たりである。標準偏差は、それぞれ standard deviation, écart type である。
37 Guillaume Le Blanc (1998) Canguilhem et les normes, PUF. Piere Macherey (2009) De Canguilhem à Foucault, La fablique. Edomond A. Murphy (1976) The Logic of Medicine, The Johns Hopkins University Press.
38 Emil Gumbel, "Klassenkampf und Statistik. Eine programmatishe Untersuchung", i10, no 13-15, Amsterdam。この論文のロシア語版 " Statistika i Klassowaja borjba", Ploblemi statistiki, no.1. は1927年にモスクワで公刊されている(未確認,なお、グンベルは MEGA<数学ノート>の編集作業のため度々モスクワを訪れている)。また,Sébastien Hertz による独逸語版からの仏蘭西語訳 "Statistique et lutte des classes: Réflexion programmatique", in Thierry Martin, dir., Mathémqtiques et Action Politique, INED, 2000 がある。同論文の章立ては、I. 統計科学の自然的社会的限界、II. 人口統計、III. 道徳統計、IV. 経済統計、V. 結論、である。例えば、経済統計の章で扱われるのは農業統計,工業統計,所得と資産の分布、インフレーションと実質化、景気分析といったテーマであるが,その研究には経済理論と経済統計学とが同調的に融合する必要があり,経済理論は経済統計学的研究によって検出される経験的事実(規則性や発展の諸傾向)によって検証・反証され得るものでなければならないと主張される。そして,規則性や諸傾向を検出するためには数理統計学的な解析法の一層の発展が必要だとされる。
このような経済理論と経済統計学との融合という主張は計量経済学 économétrie と同調するものであるが,計量経済学は例えばハーバード法の景気観測予測を「理論なき測定」として非難するように経済理論の優位性の下で両者を融合しようとしているかに見えるのに対し,グンベルは経済統計学的解析の経済理論からの独立性を主張し,経済統計学的解析の結果として得られる統計的な規則性や傾向に基づき経済理論を検証したり反証したりすることで両者が同調的に融合するという,どちらかと言えば統計学優位での融合を提唱しているかに見える。こうしたグンベルの研究プログラムはマンデルブロ以降の経済統計データ解析とも繋がるようにも見える。
グンベルの著作・草稿・講義ノート及び関連する資料類はニューヨークの Center for Jewish History 内の The Leo Baeck Institute ― New York | Berlin (LBI) で収集されており,閲覧できる(ファイルはPDF化されている)。同論文の独逸語版は次のファイルに収められている:Subseries A: Writings, Undated, 1912-1966,Publications 1928-1929; Emil J. Gumbel Collection; AR 7267; box nr. 6; folder nr.9; Leo Baeck Institute.
39 具体的には,補正や補完,要因分解や安定的な傾向性の摘出などである。蜷川が信頼性という概念で対象化・指示した諸問題についての言及もある。マイヤーの弟子でもあるグンベルの研究志向は統計的研究におかれており,蜷川のように統計方法論を定式化するという方向には向かっていない。しかし,ここで統計的研究とは量的な変動や分布の研究である。
40 ヴィクトール・クレムペラー著『第三帝国の言語<LIT>』羽田洋ほか訳、法政大学出版局、1974年刊。
41 こうした態度は、ヴィーン・サークルの論理実証主義者たちと共通する。スティーヴン・トゥールミン, アラン・S. ジャニク(2001)『ウィトゲンシュタインのウィーン (平凡社ライブラリー版)』 藤村龍雄 訳,平凡社刊。及び、Dominique Lecourt(1981) L'ordre et les jeux, Grasset.
42 グンベルはアインシュタインと連携し最後までナチス政権の誕生に抵抗した科学者・文化人グループの一員であり、ナチによって大学を追放された最初の大学教員となった。1932年6月にドイツ国会議員選挙に際してアインシュタインらと共に Urgent Call for Unity (Dringender Appell für die Einheit) を出している。同様の呼びかけは翌年の1933年7月にも出されている。
43 アルブヴァックスとフレシェはストラスブール大学教員時代(1924年)に確率論の入門書(Le calcul des probabilités à la portée de tous, Dunod)を共著として出版し、共に確率論の講義を担当している。(追記:同書は、2019年に Presses Universitaires de Strasbourg から非常に貴重なコメンタールを付した上で、復刻刊行されている。Maurice Fréchet et Maurice Halwbachs, Le calcul des probabilités à la portée de tous, édition critique commentée par Éric Brian, Hugo Lavenant et Laurent Mazliak, Presses Universitaires de Strasbourg. )
フレシェ(1878―1973)については次の文献を参照。
Michel Armatte(2010) "Maurice Fréchet, statisticien, enquêteur et agitateur publiquc", in M.Armatte, La science économique comme ingénierie: Quantification et Modélisation, Presses des Mines. Michel Armatte et Alain Desrosières(2000) "Méthodes mathématiques et statistiques en économie: nouvelles questions sur d'anciennes querelles", in Jean-Pierre Beaud et Jean-Guy Prevost, sous la dir., L'ère du chiffre: Système statistiques et traditions nationales, Presses des L'Universite du Québec.
なお、邦訳された数学書として『フレシェ 抽象空間論 (現代数学の系譜13)』斎藤正彦 訳,森毅 解説,杉浦光夫 討論,共立出版,1987年刊 がある。
44 取り上げられる対象は証券市場から河川の増水まで多様であるが,世代ごとの長寿記録のデータに基づいた次の研究がよく知られている。Emil Gumbel (1937) La durée extrême de la vie humaine, Hermann et Cie. なお、リヨンでグンベルはリヨン大学の金融科学保険研究所 Institut de Science Financière et d'Assurancesに研究員として所属している。
45 ナチス独逸の仏蘭西侵攻によりユダヤ系であるグンベルは米国への避難を余儀なくされる。米国に移住後は,研究分野を河川の増水など異常時のリスク管理の分野(Statistics of Extremes)に閉じ込める一方,アインシュタインらと共に平和運動に熱心に取り組むことになる。アドルノらフランクフルト学派の社会学者がラザースフェルドの仲介で実証的な社会調査に取組んでいったのとは対照的に学術的には社会経済問題から遠ざかっている。
46 エクストレムなものが人文社会の領域で再び注目されるようになるにはマンデルブロの登場を待たねばならない。Benoît Mandelbrot (1997) Fractales, hasard et finance (1959ー1997), Flammarion. Daniel Zajdenweber (2000, édition revue 2009) Économie des extrêmes, Flammarion. ベノワ・B・マンデルブロ、リチャード・L・ハドソン(2008)『禁断の市場 フラクタルでみるリスクとリターン』高安秀樹 監訳,東洋経済新報社刊。Jacques Lévy Véhel et Christian Walter (2002) Les marchés fractals, PUF. Christian Walter (2013) Le Modèle de Marche au Hazard en Finance, Economica. また,Didier Sornette(2003) Why Stock Markets Crash: Critical Events in Complex Financial Systems, Prenceton U.P.
47 長谷部の資本論研究会は梯明秀を世話役として、長谷部が特高警察に拘束される1938年まで続く。上杉を研究会に繋ぐのは京都帝大では一期上の蜷川ゼミ生の有田正三である(有田自身はこれを否定する発言をしている)。
48 ゼミでの研究テーマとして上杉は工業統計を選んでいる。上杉の蜷川ゼミ同期生には第二次大戦後に産業統計研究社を創業する和合二郎が,一期上には有田正三、一期下には大橋隆憲、木村太郎がいる。二期下には中村浩がいるが,ゼミでの交流はなかったようである。
49 今村仁司は大橋隆憲の生徒でもあった(京都大学経済学部)。
50 今村の留学にあたっての引き受けては,アルチュセール学派の言語学者であり,フーコーとの関わりも深いミッシェル・ペシュー(Michel Pêcheux,1938―1983)である。