重層的決定 surdétamination 概念について
山田満(Marxstat)
アルチュセールが提示した «surdétermination » という概念は「重層的決定」と訳されることが多い。しかし、そこには注意すべきことがある。
« surdétermination » は、複数の決定要因が「重なりあって」複合的に作動することを指示(意味)するが、しかし、この概念が果たしている作用(fonctionnement )は別のところにある。ここで決定的に重要なことは、この複数の決定因(矛盾を内蔵した運動体としての構造・仕掛け、)が、それぞれ異なったロジック、異なった規則(流行りの言葉で言えば、異なったゲームの規則)で作動しているということである。そして、これらの規則は(前もって決められている)静態的なものではなく、その作動の中で常に生成変様しつつあるものだということである。それぞれのロジックでもって運動し作用する複数の構造体が、互いに「食い違い(ズレ)décalage 」、衝突しながら、その都度ごとに、「全体」として「統一している(しようとしている)」運動的様態を把握する概念装置として « surdétermination » は機能しているのである。
アルチュセールは、この概念を「最終審における決定 « détermination en dernière instance »」という概念と組み合わせながら用い、しかも、「最終審は決して来ない」とまで述べるが、諸決定が入り組み合いながら、「全体」としては「未決定な」状態にあるものが、 « surdétermination » によって「最終的に」決定されるのである。(追記:アルチュセールは、最終審は、その都度、諸構造からなる「全体」のなかで、どの構造がその全体のなかで「支配因」となるかを決める « structure à dominanre » とも述べている)。
アルチュセールは« surdétermination » は « sousdétermination » とセットになっていると言っている。« sousdétermination » の状態にあるものが、« surdétermination » によって「具体的状況 « conjoncture » において」決定されると言っているのである。まさに、様々なロジック、規則が複合的に絡み合う動力学が作動している複合的状況(「現状況」)のもとで、それらを統合する(これをアルチュセールは「構造的因果性」という概念で捉えている)、あるいは、諸矛盾(それぞれの構造体内の、諸構造間のズレ・軋轢)が蓄積し、ある特定の場所(「弱い環」)に圧縮され、破裂する「歴史的瞬間 « moment historique »」( Alain Badiou が言うところの « événement » に近い)の決定メカニズムを捉えるものとして、« surdétermination » という概念は作用(機能)しているのである。
Samir Amin は、アルチュセールを念頭に置きつつ、 « sousdétermination » のほうが重要であり、「世界」は常に « sousdétermination » の状態にあり、だからこそ、我々にとって「世界」は、「開かれた自由な」解放的な可能的空間として存在しているのだと言っているが( Samir Amin, Critique de l'air du temps: Le cent cinquantième anniversaire du manifeste communiste, Editions L'Harmattan, 1997)、おそらく、アルチュセールもそれに先ずは同意することだろう。しかし、それでもなお « surdétermination » 概念が決定的に重要なのは、異なったロジック、異なった規則をもつ諸構造体(諸関係のシステム)が複合的に互いに入り組み合いつつ分節化し、ひとつの動態的な複合体を形成する過程(運動)を考えるためなのである。
アルチュセールは、こうした様態はヘーゲル的な弁証法的思考空間(問題設定)のもとでは把握できないのであり、だから、スピノザ的マルクス的な問題設定の場に移行し、思考しなければならない、と言っている。
なお、アルチュセールは1976年に次のように述べている:
Tout ce procès est constitué et dominé par des rapports contradictoires qui … peuvent réserver les surprises de l’anticipation (surdétermination) ou du retard (sous-détermination). C’est pourquoi, … … . La possibilité de ces erreur, tout comme la possibilité de déviation, est inscrite dans les rapports contradictoires … . Toujours après coup que l’erreur est reconnue et dénoncée comme erreur. Et, comme cette lutte, … , se déroule sans aucune instance qui juge … . Il faut ici parler, paradoxalement, d’erreur sans vérité et de déviation sans norme. Simplement, cet écart non maîtrisé, piétinement, aberration, … qui lentement ou soudain se creuse dans le réel, sans vérité ni norme: voilà l’erreur et la déviation. ( Avant-propos de Louis Althusser, dans Dominique Lecourt, Lyssenko: Histoire réelle d’une “science prolétarienne”, François Maspero, 1976, Paris. 引用文中の強調のための太文字は引用者による)
アミンにとって、可能性の場として設定された sous-détermination は、ここでは l’anticipation (surdétermination) の場を開く闘争のなかでの不確定の場所として設定されているのである。
2014年に、Anthropologischer Materialismus und Materialismus de Begegnung, Marc Berdet/Thomas Ebke (dir./Hg.) , Xenomoi Verlag, Berlin というベンヤミンとアルチュセールとを対話させる700ページにおよぶ「奇妙な」論文集(ドイツ語論文とフランス語論文の混合)が刊行されているが、アルチュセールにとって sous-détermination は、l’anticipation (surdétermination) の場(状況)を効果として産出する不確定な諸闘争の場でもあるのである。