論文
アルチュセール的認識論の種別性 実験科学としてのマルクス主義に向かって
山田満(Marxstat)
本稿は,関西大学大学院(経済学研究科)『千里山経済学』第 16号 (1982年12月刊行に所収されたものである。ただし,図版等は削除した。上記、タイトルをクリックすると、PDF版が開きます。
1. 経験論的認識論の基本構造とその諸変種
I
すくなくも近代西欧の認識論は《主体ー客体(対象》対置構造のなかで動いてきた。アルチュセールは,この構造のなかで動く全ての認識論を《経験論的》認識の理論であると規定した。いわゆる大陸合理論あるいは観念論と分類される潮流をも,この認識の理論に括る試みの当否はともかく,この認識の理論の基本構造はどういうものなのか?また,この構造が含む諸問題は何か?これらを理解することが,アルチュセール的認識論の種別性を確定する作業の前提条件である。
II
このタイプの認識の理論は,形式的構造として《知る主体》とこれに対置された《知られる客体(対象》とを持ち, この対置された所与の固定点としての両項を結びつけるものとして《認識過程》あるいは《意識作用》を設定する。《知る主体》が自らに備わっている認識能力(=意識作用)を働かせることにより,《知られる客体》に関する《知識=真理》を得るというのが,この認識(の)理論の基本主張なのである。ここから直ちに次のことが明らかとなる。
//page-break_57//
この認識(の)理論においては,《知る主体》において形成された《観念的構成物》としての《認識の対象》とこれが反映しているとされる《実在の(客体)》とのあいだの関係という問題(=《認識の問題》)が設定され,この問題場をめぐって諸論議が動き,この問題場のなかでは《認識の対象》が《実在の対象》と一致する(=反映・模写する)という状態が究極的理想として設定され(すなわち,問題の解決は前もって与えられているのだから,この問題場は閉じられた問題場である),これにてらして全てが測定される。
したがって,このタイプの認識論では,(1)《知る主体》の性格をめぐる問題,(2)《知られる客体》の性格をめぐる問題,(3)《意識作用》の性格,《認識過程》の本性をめぐる問題,(4)《知識》の性絡をめぐる問題,が構造的問題として生ずるが,それが生み出す第一の問題は《認識の問題》であり,この問題との関係で全ての問題が組織される。
III
経験論的認識論の基本的諸変種は,この《認識の問題》との関連で定義される。1)感覚主義的経験論, 2)合理論的経験論, 3)うら返しの経験論としてのへーゲル主義,の三つがそれである。
1)感覚主義的経験論では,《認識内容=真理》は,所与の《実在対象》の側に,すでに《実在》のなかに含まれる《本質的部分》として《非本質的=付随的=偶然的部分》に固まれ,隠されながら宿っているとされ,この《本質的部分》を《実在対象》を反射する《感覚》に基づく経験(基底層においてセンス・データ《感覚与件》)を土台として取り出すことが問題となる。この取り出し方法として《帰納法》が立てられたのであり,その結果として,この認識論は《帰納法》をめぐる問題を中心に動いてきた。この認識論では,《認識の問題》は《帰納法の問題=ヒュームの問題》となったのである。
2)合理論的経験論は知識=真理の究極の根拠を《主体》に宿る観念的=概念的構成力 に求め,最も根源的で普遍的な概念的構成形式から一切のことを
//page-break_ 58//
《演えき》しようとする。このタイプの認識論では《実在》は,この概念的形式に相関させられて《本質的部分》と《非本質的部分》とに分けられることになる。このタイプの認識論は,概念的形式の根拠と種類をめぐって動くことになる。
3)ヘーゲル主義は,大文字の《主体》(へーゲルの《絶対理念》)の展開(=外化)の過程が小文字の《主体》と《客体》とから成る物質的過程を生み出し,この《主体》と《客体》とのあいだの戯れを通して大文字の《主体》の展開が貫徹すると考える立場である。換言すれば,大文字の《主体》を《第三項》として立て,この第三項の立場から主体と客体とへの過程の分裂を統合し,この第三項の立場に小文字の《主体》における概念的構成形式(力)の根源的基礎を据えることで,《認識の問題》を一挙 に解決しようとするのがへーゲル主義の立場なのである。
IV
経験論的認識論の上述の諸変種は,諸傾向として存在し,相互に入り混んだ仕方で現代の科学認識論・科学哲学のなかに統合されている。したがって,現代の諸認識論の把握には,これらの諸傾向の重なり合いの動的メカニズムを理解することが重要である。
例えば,カント以降,感覚論と合理論との結合の試みが明確な形態でなされたと評価されるが,この結合は,この二つの傾向の支配一従属関係、の変動を伴ないながら現代にまで至り,論理実証主義のなかで再浮上する。この論理実証主義はカルナップから ポバーに至る過程で《批判的合理論/反証主義》 ----- 帰納法の全面的放棄と先験的概念構成形式の承認 ----- へと転換し,さらにラカトシュの《科学研究プログラム方法論》 ---- 《諸理論の共約不可能性》テーゼの承認 ---- の登場により,N.R. ハンスンから T. S.クーンへと至り完成される《知識のパラダイム》論の流れと独自の仕方で結合し,さらにラカトシュとの論争を経て P. ファイヤアーベントの《認識論的ダダイズム》(《知
//page-break_ 59//
のアナーキズム}》宣言へと結実する。こうした科学哲学の歴史は,認識論上の二つの傾向のなかで合理論的傾向が強化され,感覚論の支配を覆していく歴史であったとえいるが,この過程は同時に,バシュラールからカンギレムへ,さらにア ルチュセールを経由してフーコーへと至るフランス派科学哲学/科学史へと接近していく歴史であった。そして,この歴史はフランス派に統合されない限りにおいて,《真理の対応理論》(=実在論》と《規約主義》とのあいだを揺れ動く歴史だったのである(本稿は, 1980年を前後した次期に,オーストラリアとイギリスにおいてポパーからラカトシュの線での科学哲学をアルチュセール的認識論へと統合しようとする様々の試みが明確に浮上してきたことに注目しておきたい。例えば,文献 32)を見よ)。
また,へーゲ‘ル主義的傾向は合理論と感覚論との両傾向を内部に取り込みつつ《止揚》しようとする試みであったが,この傾向は「マルクス主義」的認識論のなかに統合されている。しかし, 「マルクス主義」的認識論は様々の変種を持ち,ヘーゲル主義的傾向が支配的なものから合理論や感覚論の傾向が支配的なものまで多様な仕方で存在しているのだから,ここで「マルクス主義」的認識論の基本構造を少し詳しく検討することで,この諸傾向の戯れ方をみておくことにしよう。
「マルクス主義」的認識論は,1)《精神(思惟》は物質的存在によって規定されるが,それ自身ひとつの物質的過程を構成している》とする唯物論的テーゼを出発点に置くことで,へーゲル主義の観念論を文字どおり転倒させ,ついで2)この物質的=実在的過程へと統合された思惟 (=《主体》)を《主体ー客体》複合体から超出させ,《知る主体》一《知られる客体》という認識論的対置構造を創出し,さらに3)《知る主体》=《知られる客体》=物質的・実在的過程という等式を立て,全ての物質的・実在的過程に貫徹している普遍的法則性を《唯物弁証法の諸法則》として定式化し(普遍科学=メタ科学),この《諸法則》に基づいた《知る主体》による《知られる客体》の認識が実在の真の認識をもたらすことができると立論する(ここで真の認識とは,この先
//page-break_ 60//
験的構成形式としての《諸法則》の適用に基づいた認識だと考えれば合理論的傾向が前面に出てくるだろうし,この《諸法則》の根拠を経験的諸法則からの(帰納法的)一般化ということに求めれば感覚論が前景に出てこょう )。4)こうして,「マルクス主義」は《主体ー客体》認識構造論 に固有の問題としての《認識の問題》を独自に解決しようとするが,さらにこの解決法が「その場限り」のものであることを承認し(なぜなら,いま述べたようにこの《諸法則》の根拠を問題とするとき,出発点 に逆もどりするからである),ヨリ根源的な解決案として《実践による真理の検証》テーゼを立てる。このテーゼは,《主体の対象化的活動》としての実践 (Praxis)という場が,主体がある一定の目的を達成するために一定の知識をもとに一定の諸手段を組織し実在的客体(他の《主体》をも含んで)に働きかける場であり,そういうものとして互いに分離された主体と客体とが主体の行為を媒介として再結合される場であるゆえに,実在的客体から超出した主体によってこの実在的客体に関して獲得された知識が,主体の行為を介して実在的客体のなかに投げ込まれ一体となることで実現されうる場であると捉え,それゆえ,この実践という場で知識は実在的客体と一体となることで自らの真偽を示しうる,とするのである。
以上が「マルクス主義」的認識論の基本構造の骨格であるが,それを要約すれば1)《主体ー客体》複合体としての物質的=実在的過程 → 2)《主体》の《知る主体》としての超出による《知る主体一知られる客体》という認識論的構造の創出 → 3)《主体》と《客体》との両者を貫く普遍的法則性としての《唯物弁証法の諸法則》を立てることによる,《知る主体》による《知られる客体》の真の認識の獲得可能性の理論的承認 → 4)《実践による理論(知識)の検証》テーゼの定立による実践 (Praxis)という《主体的行為》にもとづく主体と客体との再統一化の現実的場所での知識(理論)と実在的客体との直接的結合,という四段階から,あるいは観点をかえれば,1)《主体ー客体》複合体 → 2)主体の超出による主体と客体とへの分裂 → 3)実践 (Praxis)による主体と客体との再統一化,という三段階から構成されるといえる。先に述べた
//page-break_ 61//
ように認識論的諸傾向が戯れるのは,この基本構造のなかにおいてである。
四つの段階のうちの 3)の段階における戯れは先に述べたところなので,ここでは《実践による理論の検証》テーゼについてみておこう。例えば,ここで主体の対象化活動としての実践を《主体ー客体》構造から構成される歴史的・社会的諸過程を根源的に形成する力(=大文字の主体)とみなし,ヘーゲルにおける絶対理念の地位に置くならば,へーゲル主義の傾向が強くなってくるだろう。あるいは,このテーゼを社会理論における《実験》に関するテーゼとして捉え,この《実験》を実証主義のやり方で捉えるならば感覚論的傾向が強化されることになろう。このように,「マルクス主義」的認識論は,その諸契機のなかに認識論的諸傾向が戯れ,その支配権を争っているのである。
2. 経験論的認識論にたいする諸批判
I
前章では,経験論的認識論の基本構造とその諸変種を概観したが,この認識論は《認識の問題》という固有の問題をかかえこんでおり,この問題をめぐって感覚論は帰納法の問題にぶつかり,合理論やへーゲル主義は相対主義と独断論の問題にぶつかり,袋小絡におちこんでいると言ってよいと思われる。
ところで,このような経験論的認識論にたいして,それを批判・克服しようとする試みがいくつかなされてきた。ここでは,この試みのうち代表的な傾向をとりあげ,概観しておくことで,アルチュセール的認識論の独自性を把握するための準備作業としておこう。
II
この批判・克服の試みの代表的傾向として1)へーゲル主義的批判,2)現象学的批判, 3)弁証法的批判,をあげることができる。このうち1)のへーゲル主義については既に取りあげたので,ここでは他の二者をとりあげよう。
//page-break_ 62//
まず,現象学的批判について。現象学は《主体ー客体》的認識論の乗り超えを次の二つの還元によって達成しようとする。 a)現象学的還元に基づく「《実在的・事実的世界》の定立の括弧入れ」によって, 「存在に対する問いを存在の現象に対する問い」へと置き換えること (「実在は,今や,還元を通して,方法論的に,意識の相関者として定義される。現象学は,実在的なものは経験されうるし,経験されているものはすべてそのまま実在的だ,という要請に立脚する。……すべての存在は,結局のことろ現象でなければならないし,さもないと,存在に関するいかなる話もありえず,現象学は,無の不可知性と言表不能性に落ちこむほかはないからである。そのようにして,現象学は最初から,いともやすやすと,多くの形而上学的カテゴリーや二分法・・・…を見事に免れてしまうのである」 J.M.エディ,1980, pp.4-5),と b)共同主観性 に関する論義(=《共同主観的還元》)によって《客観性》という概念を再定義すること,という二つである。
現象学は,こうした二つの還元(周知のように現象学における還元として重要なものに,他 に《形相的還元》がある)に基づいて《認識の問題》をその問題領域の「外」に追い出してしまう。第ーに,《現象学的還元》によって《実在的世界(=超越的事物の世界》の定立は括弧に入れられ,意識に現われたものとしての「実在」=《意識の相関者として定義された「実在」のみが問題となりうるのだから,この現象学的問題領域で問題となりうるのは,《意識作用》内の問題,本稿の言葉でヨリ正確に言えば《実在対象》と厳格に区別された意味での《認識の対象》の構成をめぐる《意識作用》の問題のみであり,《認識の問題》が生ずる余地はないのである。第二に,今の論議から明らかなように現象学では,《客観性》の問題は《実在対象》との一致というような仕方では設定されえないのであるから,別様に定義されなければならないが,現象学は,この問題を《間主観性》・《共同主観性》の問題として理解し,この《共同主観性》の成立に基づいて《認識の対象》の客観性が相関的に定立される ---- すなわち,《客観性》の成立を《主観性》を排除することによってでは
//page-break_ 63//
なく,逆 に《主観性》に基づいて基礎づけようとする ---- と把握することで,《認識の問題》が生ずるのを排除してしまうのである。このように現象学は《認識の問題》の成立地平そのものを「越える」ことにより,経験論の問題を批判・克服しようとしているのである。本稿はここで,こうした現象学的企だてが,近年,論理実証主義解体以降の科学哲学の歴史のなかで再浮上してきていることに注意を喚起しておきたい。
先述のように現代の科学哲学は《理論の共約不可能性》テーゼを受け容れる方向に進んでいる。しかし経験論的問題場での,このテーゼの受け容れは,諸理論のうちのあるもののみが真理であると独断論的に主張しない限り,規約主義=相対主義へと行きつくしかないように思われ,このことは諸科学の活動の基礎を危うくするように思われるのである。現象学が浮上してくるのは,こうした問題状況のなかであり,現象学的立場を導入することで諸科学の活動を基礎づけようとするのである。この企だては一言ですれば,《日常的生活世界》の場に科学的活動を基礎づけようとするもので,この《日常的生活世界》を現象学で基礎づけ,これに基づいて科学的活動の意味や,あるいは知識の客観性を根拠づけようとするのである。
III
つぎに《弁証法的批判》について。このタイプの試みは,ある種のマルクス主義に見られるもので,その範囲は A.シャフのような「人間主義的」マルクス主義から M.ゴドリエの「構造主義的」マルクス主義にまでおよんでいる。
第1章で述べたように,《主体ー客体》認識構造論は《認識の問題》を解決する仕方として感覚論と合理論とに分裂するが,弁証法的批判が批判するのは,こうした分裂を固定化してしまうことに対してである。この批判によれば感覚論と合理論とは,共に正しさの一面をもっているのであるが,この一面を固定化し絶対化してしまっているのである。
感覚論は,実在的客体に宿どる《真理=認識》を取り出す(=抽象する)ことが
//page-break_ 64//
認識過程の究極的目標であること,換言すれば認識過程において構成された《認識対象》が,この《真理》と一致することであることを明確にした。この立場のなかでは《認識主体》は,感覚を通して《実在的対象》を反映=模写する《受動的主体》であり,この意味で《認識主体》(《認識主体》内に形成される《認識の対象》)が《実在対象》を真に捉えるかどうかという《認識の問題》は,この《受動的主体》が感覚を通して得た《実在的対象》に関する「情報」を分類・整理・一般化する手続きの問題(帰納法の問題)となった。
しかし《認識主体》は,,常に歴史的・社会的に規定されているし,さらに《認識主体》に固有の構造(生得的であろうと,なかろうと)というものもあるだろう。だとすれば《主体》は決して受動的でも「偏見なき精神」でもないのであり,《能動的主体》として捉えなければならないだろう。認識過程のこの側面を捉えたのが合理論である。合理論は,この《能動的側面》のみを強調することで「観念論」へと向かう傾向があるが,合理論がもつこの核心的部分を保持しなければならない。
それゆえ,認識論は,この互いに一面的である両傾向の合理的核心部分を保存し,統合しなければならないだろう。ここでは,この統合がどのような仕方でなされるのかを示すために,クララ・ダン論文(1975)から図式を借りることにしよう。
(訳書 p. 247,但し一部変更)
この図式から明瞭なように, (1)認識過程は常に,歴史的・社会的 に所与の(能動的)主体による「主観的アプローチ」にもとづいた《認識の対象》の構成から始まる。 (2)だとすれば,この《認識の対象》が《実在の対象》と「問題なしに一致」することは在りえず,「連続的な接近」についてのみ語りえよう。だが,この「連続的な接近」のメカニズムは何によって保証され,何によって確
//page-break_ 65//
証されるのか,という問題が生じてこよう。マルクス主義認識論の持徴のひとつは,認識のメカニズムを単なる《認識作用》の問題に解消するのではなく,活動・実践 (Praxis)という契機を強調したことであった。この問題の解決にとって,この論点が重要になる。主体による《認識対象》の構成は「観照的」な目的 に基づくものではなく,《実在対象》への実践的(=対象化的)関与の総過程の一環としてなされるが,このことは主体の対象化的活動とのかかわりで構成された《認識対象》が,《実在対象》と,この活動のなかで,この活動を支える認識的土台として関係しあうことを意味している。《認識対象》と《実在対象》との一致の程度が測られるのは,この主体の対象化活動のなかで,実践的判断を通じてである。 (3)だが「連続的接近」について語りうるためには,出発点として与えられた能動的主体が《固定点》としてではなく,歴史的・社会的諸過程のなかで連続的に変化する項として置かれる必要があろう。《認識対象》と《実在対象》とのあいだの実践を媒介とした対置のなかで,この実践(的対置)による《実在対象》の変形過程において《能動的認識主体》自体が連続的に変形されていき,その主観的アプローチの形態・様式が連続的に変形されることにより,《認識対象》は《実在対象》に連続的に接近していくことになろう。こうして真理は,主体=主観の構造の内部に徐々に刻まれていくことになろう。
以上が弁証法的批判の試みの概略である。要するに《主体ー客体》構造を動学化することで問題を解決していこうとする点に,このタイプの批判・克服の特徴があるといえよう。
IV
ではアルチュセール(派》はどのようにして《主体ー客体》認識構造論を批判するのか? アルチュセール的批判の核心は,批判を史的唯物論のうえに基づかせることである。哲学的批判の場を史的唯物論的批判の場に移動させ,こ
//page-break_ 66//
の移動した場から哲学的活動そのものを分析・批判し,かつ,そこから出発して哲学の新しい定義を立てることで哲学の全く新しい実践としての哲学的批判の場を成立させようとするのである。このアルチュセール的批判で核心となるのは,史的唯物論的イデオロギー論である。
アルチュセール(派)にとって史的唯物論(マルクス主義の科学)は未だ確立されておらず,構築されなければならない課題としてあったように(マルクス主義の科学は,その諸実践のなかに《実践状態で存在》しているとしても,《理論的形態》においては未だ存在していない),イデオロギー論も未だ確立されておらず,構築されなければならなかった。それゆえ,本稿でも先づ,アルチュセー ル(派)が構築しつつあるイデオロギー論を検討することから始めなければならない。
3. アルチュセールのイデオロギー論
I
マルクス主義理論の歴史において《イデオロギー》という言葉は常に用いられ,多様な使われ方をされてきた。しかし多少なりとも「理論的形態」をとり,かつ支配的影響力をもつイデオロギー論は,プレハノフ=ブハーリン型の理論であろう。
この理論は,イデオロギーを《日常的意識あるいは社会心理》を基底層にもち,この層のうえに,「特殊な人々(イデオローグと呼ばれる)によって目的意識的に形成され,形態づけられ,体系化された社会的意識」として定義し,この意識の諸形態・諸内容と諸作用を《社会的存在が社会的意識を規定する》という「唯物論的」テーゼを基礎にしながら説明することを特徴としている。すなわち,基底層としての《社会心浬》と厳格な意味での《イデオロギー》とを社会的存在からの規定関係によって把握しようとするのである。したがって,この理論は《基底還元論》を特徴としている。
//page-break_ 67//
また,この《基底還元論》的説明様式は,《社会心理》の説明にあたって《物神性》論あるいは《階級意識》論と結びつき,《イデオロギー》の説明において《イデオローグ》の社会的形成の社会学的諸条件論と結びついている。さらにこの《基底還元論》的プログラムを補完するために,この型の理論は意識過程そのものの内側からの分析として唯物論的心理学と結びついている。
こうした特徴を持つプレハノフ=ブハーリン型理論と対質して,アルチュセールのイデオロギー論の特徴は次のようなものである。
1)《基底還元論》的説明プログラムを徹底的に排除し,イデオロギーをそれ固有の構造と機能とに基づいて把握しようとする。この課題は社会体におけるイデオロギーの位置と働きを分析する作業と結びついている。
2)アルチュセール理論は J.ラカン派の《精神分析》理論と結びついており,どのようなものであれ心理学とは結びつかない。
3)アルチュセー ル理論は,《物神性》論 に対し批判的な態度をとり,《階級意識》論については階級的存在への意識の還元論について批判的である。
II
こうした特徴をもつア ルチュセールのイデオロギー論について検討していこう。アルチュセールのイデオロギー論は次の二つの部分から構成されている。
1)社会体におけるイデオロギーの位置と働きに関する理論と, 2)イデオロギーの構造に関する理論。
先づ,社会体におけるイデオロギーの位置と働きに関する理論からみていこう。
アルチュセールはイデオロギーを社会体を構成するひとつの水準・審級として把握する。資本制社会形成体/生産様式を例にとれば,《イデオロギー》は《経済の水準》,《政治の水準》と共に社会形成体を構成する水準=審級であり,これらの水準のなかで決定因の位置を占める《経済の水準》によって「最終審において」決定されていると把握される。ここで,イデオロギーを社
//page-break_ 68//
会形成体を構成する一水準であると規定することは決定的に重要な帰結をもたらす。ひとつの水準=審級である限り,イデオロギーは,それに回有の構造と効力とをもたなければならないからである。では,ひとつの水準=審級としての《イデオロギーの水準》は,どのような独自の作用と効力とをもっているのか?
この問題を設定するには,資本制生産様式は経済の水準で自立的に存在し,自己を自動的に再生産しうると考える《経済主義》的問題設定と切断する必要がある。なぜなら,この問題設定のなかでは1)《経済》以外の諸水準は,自己自動的に再生産する《経済》の存立・再生産を「外側」から支持するものとしてしか捉えられないか,たんに付随的・偶然的なものとしてしか捉えられないからであり, 2)あるいは逆に,《経済》は自らの再生産のために他の諸水準を必要とするが,《経済》の自己自動的再生産運動は,これらの水準をも自動的に《経済》の効果として産出していくと捉えられるからである。要するに,この問題設定のなかでは社会形成体の諸水準の独自的構造と独自的効力が把握されえないのである。したがって,問題は次のように設定し直される必要があろう。
(資本制)社会形成体の構造化すなわち再生産におけるイデオロギー水準の独自の働き・効力は何か?
この問いに答えるための最も有効な手段は,マルクス「資本論 」における《物神性》論である。マルクスの《物神性》論は,マルクス主義的イデオロギ一論の「コーナー・ストーン」であり「蹟きの石」であり続けてきたのだからである (E. Balibar: 1974を参照)。
ここで《コーナー・ストーン》というのは,《物神性》論は,資本制生産様式におけるイデオロギー水準(=イデオロギー的社会諸関係)の現存と効力とが,資本制生産総式の経済水準の構造化の内部にまで「浸透」した効果(=イデオロギ一作用[効果])を提示している場所であるからである。イデオロギーが社会的生産様式/社会形成体の形成と再生産とにおいて果
//page-break_ 69//
たしている働きが,その効果の面においてという条件つきで,この《物神性》という場所に読まれうるのである。換言すれば,資本制生産様式のイデオロギー水準の作用が,《経済的諸カテゴリー》の《物神性》という形態で,資本制生産様式の経済水準のただ中に「不在的」に現前しているのである ---- なぜなら,ここではイデオロギー水準は効果としてしか現存しておらず,ここに「直接的」にこの水準が姿を現わすというものではないのだから---- 。
他方で,《物神性》論は,マルクス主義イデオロギー論の「蹟きの石」である。 E.バリバール(1974)が書いているように,《物神性》論は,1)《経済的カテゴリーの支え手》が《経済諸過程》に対して持つ諸観念(否認/再認 [ la méconnaissance/ reconnaissance ] )を経済諸過程の《構造(あるいは形態 )の効果》,すなわち諸個人の占める位置が諸個人に対して及ぼす単なる効果に帰してしまうし, 2)《経済的支え手》の持つ諸観念が否(誤)認という形態で把握する当該の《対象》自体を「この固有の否認の起源あるいは主体」の地位に置いてしまい,この否認を《経済的諸カテゴリー》=《諸対象》の「形態(たとえば価値形態のような形態)の《自動的発展》がもたらす結果」にしてしまうからである。いずれにしても,《物神性》論はイデオロギーを,それを生産する種別的なイデオロギ一生産様式(イデオロギー的実践)の物質性において担えることができずに,経済諸過程をそれ自体で構造化可能な《自動機械》にしてしまい,経済諸過程のなかに巻き込まれ(impliqués),経済的諸過程の構造化自体に関与し,かつ関与することで自らの再生産(構造化》の諸条件をつくり出す実在的・物質的諸過程としてのイデオロギー的諸過程(イデオロギー的諸実践)の社会体の再生産における独自的作用・独自的効力を把握しそこなってしまうのである(ところで,《自動諸機械》というものを考えうるとしたら,それは,祉会形成体のレベルか,あるいは諸社会形成体レベルで分節化されるグローバルな世界体制のレベルにおいてであろう)。
このように《物神性》論は,「顕きの石」ともなるのであるが,それは「コーナー・ストーン」でもあり,マルクス主義的イデオロギー論の構築は,理論的レベル
//page-break_ 70//
では,ここから始める以外にないのである。
III
《物神性》論が史的唯物論的イデオロギー論の構築作業にたいして提示している本質的諸要素は何か? 紙数の節約上,ここでは論証は省略し,この諸要素のみを列挙しておこう。
要素(I)《物神性》論はイデオロギ一作用の現存が資本制生産様式の構造と働きにとって不可欠の契機 ---- それなしにはこの生産様式が存在しえないという契機 ---- であることを提示している。
要素(II)《物神性》という形態の下で叙述される,《経済的支え手》たちの持つイデオロギー効果としての諸表象と,この諸表象のなかで為される諸行為とは,現実=実在の単なる歪曲化された表象とそれにもとづく行為といったものでは全くなく,現実的=実在的諸過程の一部を構成している。
要素 (Ill)イデオロギーは,諸個人が彼/彼女らの現実的存在諸条件とのあいだに一定の関係をとり結びつつ行う「日常的」な諸行為をその内部で行うところの表象であり,諸個人は,彼/彼女らの現実的存在諸条件とのあいだの《現実的諸関係》を,この諸表象のなかで,この諸表象を通して生きる。
要素 (IV)諸個人は,この表象のなかで,この表象を通して《現実的諸関係》を生きることによって,これに相即的に一定の経済的機能を真に担いうる諸主体へと常に形成=変形される。
これらの要素うち(II)~(IV)については,若干の説明を加えておく必要があるだろう。
マルクスの《物神性》論は,《現実的関係(過程)》(本質)が「社会の表面」(現象界)に現象諸形態として現われる際に,あるいは現われる過程でとる様々の転倒化・隠蔽化・神秘化の諸形態を,この転倒化(例えば,人と人と
//page-break_ 71//
の関係が物と物との関係として表象されたり,関係の「属性」が物の「属性」のように表象されたりすること)と《隠蔽化》(例えば「労賃・費用価格・利潤」概念の形成にもとづく搾取関係の隠蔽化)の作用メカニズムを説明することで説明しようとする作業の「不可欠」の構成要素として展開された。《物神性》は,「社会の表面」への《現実的諸関係》の現出過程における転倒化と隠蔽化という《現実的諸関係》そのものが内在化している作用が,経済的カテゴリーの支え手の表象に現われる仕方なのである。換言すれば,《現実的諸関係》そのものが構造的に内在化している転倒化・隠蔽化の作用が,それに対応した表象を《諸関係の支え手》たちに押しつけ,そうすることによって,これらの《支え手》を諸関係を主体的に担いうる諸主体へと変形する過程(一定の《主体形態》を支え手たちに付与する過程),これが物神化過程なのである。このように,物神性論を捉えるなら,上述の諸要素を導出することは可能であると思われる。
IV
しかし,《物神性》論は同時に「績きの石」であった。ここでは先述のバリバールの論議を彼の論議に沿って少し引き延ばす作業を行なっておこう。
先述のように,マルクスの叙述にもとづけば《現実的諸関係》そのものが転倒化・隠蔽化の作用をもつとされるのであるが,この叙述のなかでは《経済的支え手》たちにおける《物神的》な表象の形成は,《現実的諸関係》の外側に実存する《諸主体》がこの《諸関係》を《見る》という認知行為によって説明され,構造(現実的諸関係)が自ら転倒化・隠蔽化された形態で現出するからこそ,物神的な ---- すなわち《現実的諸関係》の歪曲化された ---- 表象が形成されるのだとされる。すなわち,この叙述のなかでは 1)《経済的支え手》の思考的過程のなかで形成される表象は,《現実的諸関係》の展開が作り出す効果(諸位置の支え手たちに及ぼす効果)として捉えられ,この諸位置の効果を応答的に支える対応者として《知覚能力を備えた諸主体》が《現実的諸関係》の外
//page-break_ 72//
側 に置かれている, 2)形成される表象が《歪曲化された》表象であるのは《現実的諸関係》が転倒化されて現出するからであり,この《諸関係》がそのものとして“透明さ”のなかで現出するならば,形成される表象も対応して”透明な”世界を開示するだろうとされる, 3)《現実的諸関係》と《諸主体》が対置され,《諸関係》の展開が《諸主体》にある一定の歪曲化された表象を押しつけるという論議の展開は,《諸主体》の側の《主体性 》に力点を置いて展開し直せば,「本来,《主体》が創造したはずの世界が《主体》から自律化し,自律的に動き始めた結果として,逆に《主体》を支配するようになり,《主体》を《疎外された主体》へと形成する」という《疎外された主体》の形成論となるだろうし,逆 に《諸関係 》に力点を置くならば,《諸関係》(構造)の効果としての《諸主体》の形成論となるだろう。
こうした論議の問題点は,先述のようにイデオロギーの形成あるいは主体の形成を,それを生産する実在的・物質的なイデオロギ一生産過程に基づいて説明しないことである。この基本的な問題点に規定されて,《物神性》論は種々の問題を生み出すのである。このうち決定的なものを二つ示しておこう。
1)この論議は《イデオロギーの死滅》という破滅的な政治的効果を及ぼすテーゼと結びつく。ある晴れた日に,《現実的諸関係》が”透明さ”のうちに自らを現出するよう変形されるなら,世界の歪曲化された表象としてのイデオロギーは死滅し,世界は“透明さ”のうちに表象されるようになるだろう。こうしたテーゼが破滅的なのは,イデオロギーは《諸関係》が“透明”になるよう変形されるなら,《自動的》に変形され ---- 残存とか遅れとか言われるとしでも ----- ,消滅するだろうとされるからである。イデオロギー的社会諸関係という実在的・物質的な構造と効力をもつ諸関係を変形する正に現実的で物質的な効力をもつ闘争(イデオロギー闘争)が軽視され,あるいは無視されてしまうのである。これは,とりわけ共産制への移行における過渡期階級闘争としての《文化革命》の重要さを決定的に無視してしまうのである。
2)《現実的諸関係》と《諸主体》との対置構造は,正に《主体ー客体》構
//page-break_ 73//
造の図式なのだが,先述のように,この対置構造のなかで《主体》の側 に主導権が与えられるなら,《疎外論》(=人間主義・人間学主義)となり,構造の側 に決定権が与えられるなら,《構造主義》となるのであり,《物神性》論はこの二つの極のあいだを揺れ動くことになろう(周知のようにソシュール言語学はラングーパロールの対置構造となっており,これはラング(=構造》とパロール(=創造的発話主体)という構造主義と人間主義の対置構造と重なっている《この点については,ラングーディスクールという新しい区別を提起した M.Pêcheux: 1975 を参照)。
V
それにしても,なぜ,イデオロギーは,それを生産する実在的・物質的イデオロギ一生産過程にもとづいて説明されなければならないのか? この問題をもっと明確にする必要がある。
問題をハッキりさせるために B.ブルースター (Ben Brewster: 1976)から論議を借用しよう。例となるのは《天文学》をめぐって動いた物理学における《科学革命》である。
天文学上の科学革命は,プトレマイオス的な天動説からコペ ルニクス的な地動説への転換を決定的契機にして構成されるが,マルクスは科学革命のこのモデルを基準にして『資本論」の科学性を示そうとしている。天体の現実的運動(=本質)はコペルニクス的であるけれども,地球上の人間の《日常的な表象》に現われる外観的・現象的運動はプトレマイオス的である。本質と現象が一致するなら,科学はいらない。科学の仕事は日常的な実践的表象にあらわれる外観的・現象的運動を批判することで,本質的な現実的運動 に到達し,これを説明することである。
以上がマルクスが言ったことである。この論議が《現実的運動》とそれの外側にいてそれを《見る》主体という認識構造のなかで動いていることは明確であるが,ここで問題となるのは,天体の現実的運動のなかで動いている《地
//page-break_ 74//
球》という場所(位置)を占める《見る主体》にとって,現実的運動は自ら転倒して現われるとする論理の構造である。
この論理を覆すことが必要であるが,それは非常に簡単である。天体の現実的運動の現出がプトレマイオス的になるか,コペルニクス的になるかは,現実的運動そのものには全く関係しないのであって,むしろ,この運動の現出をどう解釈するかに依存している,と言えばよいのである。すなわち,《日常的・実践的表象》において,どのような《世界観》が支配しているかに依存しているのである。例えば,地上=人間中心主義の世界観では天動説的に,太陽を中心に据える世界観では地動説的に,現実的運動は現出しよう。現実的運動は,それ自体として存在しているのであって,そこにどのような認識効果も含んでいない。それは,それ自身を開示することも,隠すこともなく,ただそこに存在しているだけである。したがって,《コペルニクス的転回》とは,西欧中世において支配的であったキリスト教的世界観の一つの変種を神学上の解釈の変更を通じて別の変種に置き換えることによって,その効果として天動説が地動説へと転回したことを意味しており,こうした転回が効果として「無意識 」のうちに近代物理学の科学的地平を切り拓いたのである。現実的運動を説明する科学は現実的運動のイデオロギー的表象と切断することによってのみ形成されたのであるが,それは当該のイデオロギー的表象を支え,形づくる解釈体系(=世界観)を,その内部から動揺させるなかで,現実的運動の全く新しいタイプの説明形態が「無意識」のうちに生産されることによってなのである(この説明形態の全く新しい地平を異にした性格が認識されない限り,この形態は旧来のイデオロギー的解釈体系のなかに吸収され,理解されるこことなろう)。
このように考えてきたとき,イデオロギーは,それ自身よりも他の何者かによって説明することはできないのであり,それ自身の実在的・物質的な固有の生産過程によって説明されなければならないことが明確になろう。
//page-break_ 75//
VI
ところで,社会体の理論はイデオロギ一作用の問題をも,その理論のなかに取り込み説明しなければならない。《物神性》論が明瞭に示したのは,正にこのことであった。しかし,《物神性》論はイデオロギ一作用の問題を構造自体の転倒化・隠蔽化という問題に還元してしまう傾向があった。したがって,イデオロギ一作用の生産を《物神性》論でもって説明することを放棄し,別の理論で置きかえることが必要である。この理論は,イデオロギ一作用の生産の理論としてのイデオロギー的社会諸関係の理論でなければならないことは今や明らかだと思われる。社会体の理論は,イデオロギー効果の生産の理論を自らのうちに含まなければならず,資本制生産様式の構造の作用が経済的効果の生産過程と同時にイデオロギー的効果の生産過程でもあること(付け加えれば,政治的効果の生産過程でもあること),これらの諸効果の生産を担う諸関係を資本制生産様式は内に含んでいることを,明確に提示するものでなければならないのである。社会体の実在的諸関係が,それ自体のうちに認識的効果を含んでいるとしたら,それはこの実在的諸関係がイデオロギー的社会諸関係を含んでいるからなのである。
VII
アルチュセールのイデオロギーの構造論は,イデオロギー効果の生産様式論として提示される。この理論は,今や明らかなように経済的効果の生産様式論と結びついていたが,さらに国家論とも結びついている。
これまでの論議で示してきたように,「諸イデオロギーは,どのようなものであれ,《観念》の領域における社会諸関係の単なる反映ではなく,それ自身,社会諸関係の一部分をなしている 」 (P.Q.Hirst : 1976)。社会諸関係としてのイデオロギーは,独自の《物質的存在》をもっており,独自の物質的効果を生産するのである。
イデオロギー的社会諸関係が組織され,存在するこのような場所を《イデオ
//page-break_ 76//
ロギ一生産装置》と呼ぶなら,イデオロギーは常に,この装置とその(諸)実践のなかに存在しており,その存在は物質的だと言えよう。
アルチュセールのイデオロギー論が国家論と結びつくのは,このような《イデオロギーの物質的存在性》に関するテーゼに基づいてである。イデオロギ一生産諸装置は,宗教装置,学校装置,家族装置,司法装置,政治装置,組合装置,情報装置,文化装置から構成されており,これらの装置(の実践)によって宗教的,道徳的,法律的,政治的,美(学)的,等のイデオロギー効果が生産されるのであるが,これらの装置をアルチュセールは《国家の諸イデオロギー装置(les appareils ideologiques d'Etat)》と規定するのである。
その多くの諸装置がブルジョア法制上の《私的》領域 に属する《イデオロギー生産装置》を国家装置として規定することには,「社会の他の部分から分離し,階級の存在と結びついた,特別の機関(organization)として国家を把握するマルクス主義的国家概念 」(G. Therborn, 1980)の立場からみて不適切でないかという批判があるにもかかわらず,アルチュセールが《国家のイデオロギー装置》概念を提起するのは,「国家と諸イデオロギー装置との切り離し得ない結びつき」を強調することで,1)「階級闘争に先だった空間のように《社会》に一様均質に押しつけられる時代精神といった一般的形態でもってイデオロギーは生産・再生産されないこと 」,2)各々の階級が階級闘争に先だって各々に独自のイデオロギーをもち,しかる後,これらのイデオロギーどうしが出会い,闘争が始まるといった階級還元論的イデオロギー論は承認しえないこと,3)支配階級のイデオロギーが支配的イデオロギー(支配的生産様式に構成的なイデオロギー)となるのは,支配階級がイデオロギ一生産装置を「奪取し掌握する限りにおいて」であること,4)にもかかわらず,イデオロギー装置は支配階級の純粋な道具ではなく,すなわち現存の生産諸関係を純粋・単純に再生産するイデオロギ一機関ではなく,「永続的な階級闘争の賭金」であり,「生産諸関係の変形の場所であり,イデオロギー的諸条件」であること,をハッキリと確認するためであった(M. Pêcheux: 1975)。プロレタリア革命は生産
//page-break_ 77//
諸関係の変形=解放のための革命であるが,この革命は国家権力の奪取と掌握とを媒介としなければならず,そのためには既存のブルジョア国家装置を「占傾」すればよいのではなく,破壊し,他の組織に置き換えなければならないのだとしたら,《イデオロギー装置》を《国家のイデオロギー装置》として把握することの意義は全く明瞭だと思われる。アルチュセールが言おうとしたことは,このことだと思われる。
VlII
《国家のイデオロギー装置》とその諸実践として存在するイデオロギーは,どのような一般的構造と働きをもっているのだろうか? この問いをめぐって,アルチュセール理論はラカン派の精神分析理論と結びつく。
イデオロギーを社会体に刻み込まれた物質的実践として捉え,この独自の実践のなかで独自のイデオロギー効果が産出されると考えるアルチュセール理論にとって問題となるのは,この独自の物質的実践の構造と働きとを解明することであるが,これは諸個人(=諸主体)の意識・心理に基づいて解明しうるものではない。問題となっているのは,こうした意識・心理を基底において規定していく社会的・物質的実践の構造と働きだからである。この構造の解明に基礎を与えるものこそ,ラカン派の精神分析理論なのである。
アルチュセールにとってラカン理論が重要であるのは,この理論が以下のような特徴をもっているからである。
1)ラカン理論は《主体》の生成・形成の理論である。この理論は,ある所与の《主体》が特定の主体へと形成されるという《主体形成論》ではなく,非ー主体としての(人間的)諸個人が特定の《主体》へと変形される諸過程の理論である。
2)この《主体への変形》を諸個人あるいは集団の意識や心理に基づいて説明するのではなく,家族装置という特定の社会的装置を形成している社会的諸関係(基本的には,母ー子供という二項関係から母ー子供ー父という三項関係へ
//page-break_ 78//
の移行,そして第四項としての《主体》の生成)の織りなす効果として説明していること。
3)こうした《主体への変形過程》は,《非ー主体》としての《人間的諸個人》が《文化の法》(大文字の主体=象徴秩序=イデオロギー)に服属させられる過程 ---- 換言すれば《諸個人》が社会体が指定する秩序に従う過程 ---- であり,この《象徴秩序 Ie symbolique》に服属すること (assujettissement)によって《諸個人》は《諸主体》になるということ。「諸個人が諸主体であるのは,この服属によってのみである。」
4)《文化の法》(イデオロギー)への服属による《諸個人の主体への変形過程》は,《主体》となった時に,この《主体》の意識から抹消され,無意識化され,《主体》は初めから《主体》であったかのようにみなされるようになること。
5)この《主体への変形過程》は,同時に《文化の法》(イデオロギー)が再生産される過程であり,この《文化の法》に規定されて《諸主体》にとっての《諸意味》の世界が形成され,かつこの《諸意味》の支え手として《諸主体》が形成される過程であること。
IX
このような特徴をもつラカン理論をアルチュセールは史的唯物論的イデオロギー論と結合させる。この結合は,次の諸テーゼを産出する。
テーゼ 1:イデオロギーは歴史をもたない。
テーゼ 2:イデオロギーは物質的存在をもつ。
テーゼ 3:イデオロギーは諸個人の現実的存在諸条件に対する彼/彼女らの想像的関係の表象(une représentation du rapport imaginaire)である。
テーゼ4:イデオロギーは諸個人を諸主体へと(諸主体として)呼びかける(L'ideologie interpelle les individus en sujets.)。
//page-break_ 79//
ここで,テーゼ1は,次の2つのことを指示しうる。1)イデオロギーは全ての社会形成体/生産様式の不可欠の構成要素であること。換言すれば,どのような社会形成体もイデオロギー水準の存在なしに存在することはできないこと。
2)どのようなものであれ特定のイデオロギーは,それに回有の歴史をもち,生成・発展・消滅しうるが,諸イデオロギーを正に《イデオロギー》と規定しうる不変な一般的構造(イデオロギー一般)が在ること。
このうち1)は,《イデオロギーの死滅》テーゼ に反対して設定されているが,なぜ,どのようなものであれ社会形成体はイデオロギー水準を必要とするかについては,「生物学的な(純粋に極限的な)存在が人間存在(人間の子供)へと移行する」には必らずイデオロギー(《文化の法》)への服属が必要であるというラカン理論から説明しうる。どんな社会体でも,人間的諸主体なしに存続不可能であり,諸主体の形成にはイデオロギーが不可欠なのである。
また, 2)は,イデオロギーの理論が成立するための必要条件であるが,テーゼ 2については,先述したとおりであるので省略する。
さて,こうしたテーゼ 1,2がイデオロギー論の基礎的条件を示すテーゼだとすれば,テーゼ 3,4は,イデオロギー論の根本的テーゼを構成する。
テーゼ 3について。1)このテーゼは《歪曲化された表象》あるいは《虚偽意識》としてのイデオロギー論との明確な切断を示している。 2)このテーゼによれば,イデオロギーは実在の表象ではなく,実在に対する諸個人の関係の表象である。「イデオロギーは人間たちの世界 に対する人間たちの生きられた (vécu)関係にかかわっている J (Louis Althusser: 1963b)。このことは,イデオロギーが実在の認識にかかわるのではなく,諸個人が実在との関係をどう生きるのかという《社会的・実践的》な領域の問題にかかわっていることを示している。 3)この実在に対する諸個人の関係は,《想像的関係 (rapport imaginaire)》として特徴づけられている。「諸個人が彼/彼女らの存在諸条件に対する関係を生きる仕方(Ia façon)」は《想像的》なのである。なぜ《想像的》なのかと問えば,ラカン理論,とりわけ鋭像段階の理論へと立ち戻らな
//page-break_ 80//
ければならないが ---- 周知のように《想像的(imaginaire)》は鏡像 (l'image en miroi)から来ている ---- ,ここではアルチュセールの社会形成体/生産様式の理論の問題設定から説明しておこう。アルチュセールにとって社会形成体/生産様式の過程的構造は,どのような(諸)中心も(諸)主体も(諸)目的も持たない脱一中心化された(de-centralisée)《(諸)主体も(諸)目的も持たない過程》としての構造であり,そこでは人間的諸個人はこの過程的構造の諸機能の支え手=担い手(les《porteurs》)であり,どのような形態であれ人聞は世界の中心には据えられない。ところが,諸個人が構造の諸機能の支え手としての機能を演じうるためには,諸個人は世界に対置され,世界を客体として 及う《行為主体》として,世界とのあいだに《対象化的活動的な関係》を結ばなければならない。この時,諸個人の位置は,いつでも世界の中心になければならない。諸個人は世界との対象的かかわりあいのなかにある時,常に自らを中心に据えなければ行為しえない(たとえ,《疎外された》中心としてであっても)。したがって,この行為の関係のなかに置かれた時,人間的諸個人は世界のなかでの彼/彼女らの現実的関係を生きている(=体験している)のではなく,この現実的関係を世界とのあいだの関係として生きていなければならない。この関係は,現実的関係ではなく,想像的である。しかし想像的であれ,この関係のもとでしか人は人として生きられないし,社会形成体は存在しえない。この意味で,この想像的関係は諸関係(生産諸関係,等々》との関係あるいは二次的関係としてひとつの現実的関係を形成していると言える。イデオロギー(《文化の法》)は,この想像的関係に《第三者》として介入し,この想像的関係を生きる諸個人を当該の社会形成体の諸機能が要求する ---- すなわちその諸機能の支え手として行為しうる ---- 諸行為者(=《諸主体》)へと変形するために,この諸個人に世界についての一定の表象体系を押しつけ,この諸個人をこれに従わせるのである。 4)イデオロギーがこのように想像的関係の表象であるとすれば,イデオロギーは常に実在的存在諸条件の歪曲化された表象としてしか存在しえないことになる。「この関係の想像的性質が,全ての
//page-break_ 81//
イデオロギーのなかに観察されうるあらゆる想像的歪曲(la deformation imaginaire)を支えている 」(Louis Althusser: 1969)。イデオロギーは常に一定の行為者から見た世界の表象であるのだから,《主体も終点もない過程的構造》としての実在的世界は,いつでも歪曲化されて現われるのである。 5)しかしながら,「アルチュセールが強調してやまなかったように,イデオロギーはひとつの社会的審級であり,誤びゅう・幻想・否(誤)認といった認識論的次元に還元することは全くできない。所与の歴史的諸条件において,イデオロギーは《否認》諸効果を産出するが,イデオロギーを否認として,すなわち認識へのそれの否定的関係を通して定義することはできない J (E. Balibar: 1977)。
テーゼ4について。1)テーゼ3 の2)と3)から,とくに 3)から明瞭なように,イデオロギーは具体的な人間的諸個人に働きかけ,諸個人が彼/彼女らの現実的存在諸条件とのあいだに結ぶ想像的関係に介入し,諸個人がその現実的存在諸条件を表象する過程を支配することで,諸個人を当該の社会形成体/生産様式の諸機能の支え手として行為する諸主体へと,すなわち諸人格へと変形する。《主体 (sujet)》となることは,特定の象徴秩序(=イデオロギー)に服属し,それの《臣下 (sujet)》となることで,当該の諸機能の《主体的》支え手となることである。こうした主体への変形作業がイデオロギーの社会的
・実践的働きである。 2)イデオロギーに服属する(させられる)ことで《主体形態》をとった具体的諸個人は,この《主体化》の過程に相即的にイデオロギー自体を再生産していくイデオロギー装置の諸実践とこの諸実践がそのなかに刻み込まれるところの諸儀式 (des rituele)の日常的な作用のなかで,日常的に自らを《主体》として繰り返し承認=再認(reconnaissance)されていくのだが,この承認=再認の過程で《主体化》の過程は完全に意識から抹消され,《無意識化》されていく。《主体》は自らが《主体》であることを第ーの明証(l'evidence)として受けとるようになる。 3)この《主体》の明証性は,相関的・相即的に一定の《象徴秩序》の《無意識性》となって現わ
//page-break_ 82//
れる。《主体への変形》は,この《象徴秩序》への服属の結果(効果)なのだが,この効果が自明なものとして受けとられるとき,この効果を産出した過程は意識から抹消される。 4)この一定の《象徴秩序》(イデオロギー》は特定の社会形成体において,国家のイデオロギー諸装置の作動に依拠しながら《諸イデオロギー形成体の複合的全体》(M. Pêcheux:1975)として存在するが,この諸イデオロギー形成体に諸個人が服属させられ,この諸形成体に刻み込まれている諸イデオロギー的立場(les positions ideologiques)に押し込まれ,組み込まれることによって諸個人は諸主体となり,《諸主体》にとっての《諸意味の世界》 ----- すなわち,《諸主体》にとっての《諸現実》------ が生産される(切り拓かれる )。「イデオロギーは特定の意味が記号の意味作用において実現される場所として主体を生産する 」(Rosalind Coward and John Ellis:1977, p.68)。このようにイデオロギー装置の働きは,社会形成体/生産様式によって指定された諸位置=諸立場 ---- 諸イデオロギー的立場がこれに対応する ----- を支えうるところの諸表象(諸イデオロギー形成体)の生産過程であり,同時的・相関的にこの諸表象を支える諸主体の生産過程なのである。 5)《主体》の自明性は象徴秩序(イデオロギー)の《無意識化》をもたらすが,イデオロギーの《無意識化》は,このイデオロギーに服属した諸主体が諸主体のもの(=所有物)として生み出す《諸意味》の明証性となる。この《諸意味》の明証性は,諸主体にとって現われる世界(《意味の世界》=《現実》)が「自然なもの=本性に基づくもの」として《諸主体》に現われることを示している。《諸主体》にとって現存=現前 (présenter)しているものは,明証として受け容れられ,存在=実在それ自体であるとみなされる。 6)諸個人は常にすでに諸主体である。諸個人は生まれた時から,生まれる以前からイデオロギー(象徴秩序)によって攻囲 (investir)されており,「全てのイデオロギーは,(主体というカテゴリーの機能作用によって)具体的諸個人を具体的諸主体へと呼びかけ」ているのだから,諸個人は諸主体としてしか存在しえない。諸個人は諸主体としてしか,この《世界》を生きることができない。
//page-break_ 83//
4.経験論的認識論にたいするアルチュセール的批判
I
アルチュセールのイデオロギー論の考察から,経験論的認識論に対するアルチュセール的批判の基本的立場は,ただちに明らかとなる。
経験論的認識論は《主体ー客体》構造のなかで動いてきた。《知る主体》が《知られる客体》に関する知識を《意識作用》を介して得るというのが,それの基本構造であり,この基本構造のもとでは《知る主体》と《知られる客体》とのあいだの関係が中心問題(《認識の問題》)となり,この認識論に固有の解決不可能な難問として,この認識論の諸論議を動かしてきた。
アルチュセールのイデオロギー論は,この《主体ー客体》構造がイデオロギ一作用のなかで形ちづくられていることを明らかにすることで,この構造に基づく全ての認識論を解体してしまう。なぜなら,この構造は,現実の構造ではなく,想像的な構造であり,そこで生ずる諸問題は想像的な問題だからである。しかし,イマジネールはイデアールではなく,マテリエールな存在をもつ。この想像的な構造は物質的存在としてのイデオロギーの現存と効力の場である。
この想像的関係としての《主体ー客体》構造は,イデオロギーが人間的諸個人を諸主体へと変形し,社会形成体の諸機能の支え手とするために生産した社会的ー実践的効力をもつ関係であり,イデオロギーの作用空間のなかで徹頭徹尾,構成されている。この作用空間のなかでは,社会形成体の機能作用が要求する《諸主体》がー方の極に生産され,明証的なものとして確立されるのと相即的に,これらの《諸主体》に宿どったイデオロギ一作用の効果として《諸主体》にとっての《世界=意味の世界》がその対極に明証的な《客体》として立ち現われる。したがって,この両極に置かれた《主体》と《客体》とは同ーのイデオロギ一作用の同時的生産物であり,この両極間でなされる全ての《認識
//page-break_ 84//
行為》は,このイデオロギーの再認=承認(reconnaissance)過程より以外のものではない(ここで《主体》の明証性を認識の究極の根拠として捉えたときに,《合理論/観念論》が生まれ,客体として現われた《世界》を《実在》そのものと取り違えたときに《実在論》が生まれる)。
II
《主体ー客体》構造を乗り超えたと表する諸認識論はどうなのか? アルチュセールのイデオロギー論は,これら全ての認識論をも解体している。
ヘーゲル主義は大文字の《主体》をたてることで結局のところイデオロギーの場へと世界をとりこんでしまうのであるし,現象学は現象学的還元によって超越的事物の定立作用を括弧にいれ,《自然的見方の世界》から《現象学的見方の世界》へと移行することで,《主体ー客体》構造における,すなわち自然的見方の世界における《実在的客体》が「思惟されたもの」であることを示すのであるが,他方で括弧いれの後に残る「思惟作用」自体の本質的構造の記述を試みることで認識の基礎づけがなされるとする点で,イデオロギ一作用のなかにとどまり,イデオロギーを正当化してしまう。
また,《主体ー客体》構造の動学化戦略について言えば,動学化しようがしまいが,この構造自体が問題になっているのだから,この動学化戦略は何事も解決しえない。
5.《認識論的断絶論》
I
アルチュセール(派》は《認識論的断絶 la coupure épistemologique》という概念を決定的な概念として提出したが,アルチュセールのイデオロギー論を検討してきた今,生産諸関係とこれによって最終審において決定された社会諸関係(生産諸力の構造をも含んで)の資本制生産諸関係からの解放の科学
//page-break_ 85//
としてのマルクス主義 -----マルクス主義は《人間》解放の理論ではなく,《社会諸関係》の解放の理論である ---- の《認識論的基礎地平》,すなわちマルクス主義の《科学性の成立地平》を確定することに全力を傾けたアルチュセール(派)が,科学とイデオロギーとのあいだの《認識論的断絶》という概念を,マルクス主義における《認識論的革命=理論革命=テオリック(le Théorique)の歴史における革命》を開示する《構造因果性 la causalité structurale》という概念とともに,その理論の帰趨を決する決定的概念として提出した理由が明確になる。このことを明確にするため,今一度,アルチュセールのイデオロギー論を別のやり方で要約しておこう。
左図から明らかなように,アルチュセールにとってイデオロギーは社会体の相対的に自律的なひとつの水準として存在し,経済的・政治的といった他の諸実践の水準(構造としての実践 la pratique)と一体となって物質的な社会的ー実践的効果を生産している。このイデオロギー的社会的ー実践的効果とは,具体的《諸個人》を特定の社会体を構成する社会諸関係の《支え手》として具体的に演じうる生活態度・能力・知識,等をもった具体的《諸主体》へと変形することで当該の社会体の構造化と再生産機能とに関与することであるが,ここで重要なことは,諸個人を諸主体へと変形するこのイデオロギ一作用が《主体ー客体》構造を生産するということである。イデオロギ一作用は,具体的諸個人を特定のイデオロギー(象徴秩序)に従わせることによって具体的諮主体へと変形するが,諸個人が諸主体へと変形されることによって初めて,実在の社会
//page-break_ 86//
体はこの主体化と相関的・相即的に《主体》に対置された《客体》=《客体として表象された社会体》となるのである。
ところで《客体として表象された社会体》とは,イデオロギーに服属した《主体》が当該のイデオロギ一作用のなかで表象する《客体》である。このイデオロギーによって提示された《客体》を当然のものとして(明証として)受け容れ(させられ)ることによって諸個人は諸主体になるとも言いうるのである。
ここで確認すべきことは,こうして《諸主体》に対して《客体として提示(=表象)された社会体》の表象が国家のイデオロギー装置の作動によって生産されたイデオロギ一作用の結果であり,支配階級=支配的生産諸関係のイデオロギーにもとづいた(イデオロギーとしての)表象であるということだけではない。ここで確認すべきことは,むしろ次のことなのである。《社会体》がイデオロギー作用のなかで客体として表象されるということは,社会体を《客体》として自らに対置し,これに対象化的に関与する《主体》の立場から社会体が《見られ,表象される》ということである。《客体としての社会体》は,主体の行為論的立場から表象され,行為論的世界として現われるのである。まさに,こうした表象がイデオロギーなのであり,イデオロギーが諸個人を従わせ,《諸主体》にし,こうした行為論的世界のなかに取りこむのである。
ここから次のことが明確になる。イデオロギーは実在的諸過程の複合としての社会体の認識 -----社会体の認識は社会体を主体も目的もない過程として捉える---- をではなく,諸個人を行為論的世界のなかに結合し,その世界の諸主体とすること -----すなわち社会的-実践的効果------ を産出するのである。それゆえ,どのようなものであれ,イデオロギーは社会体の実在的過程の認識をもたらさないのである。先に掲げた図におけるイデオロギー水準の位置は,このことをよく示しているであろう。
II
このようにみてきたとき,社会形成体の認識 (une connaissance)に関与し,
//page-break_ 87//
この認識を労働運動と結合させることで資本制社会形成体の共産制社会形成体への移行の総過程を構成する階級闘争を掌握しようとするマルクス主義理論が,社会体の歴史の科学としてイデオロギーと切断しなければならなかった理由は明確であろう。イデオロギーと切断しない限り,社会体は認識不可能だからである。しかも,このことは,イデオロギーの本性に基づいており,支配階級が自らの利害のためにそのイデオロギーによって社会体の歪められた表象を与えるといった問題 ------良いイデオロギーと悪いイデオロギ一 ---- ではないのである。イデオロギーは諸個人を《諸主体》に変形するという社会的実践的効果の生産にかかわっており,他方,(マルクス主義の)科学は(社会体の)認識(=認識効果の生産)にかかわっている,という両者の本性上の違いが《切断》を必要にさせるのである。
ここで,イデオロギーと科学とのあいだのこの切断が《利害にとらわれた誤まった,歪曲された認識》と《真の正しい認識》とのあいだの切断ではないということを確認しておくことが重要である。イデオロギーと科学との関係は認識(論)的関係ではなく,社会形成体を構成する諸水準聞の関係 -----イデオロギー水準と科学的実践の水準との関係----- なのである。
もちろん,イデオロギーは《利害にとらわれた,誤った,歪められた表象》に還元されないとしても,「一定の歴史状況の下で《否認(誤認)効果》を生産する」ことは確かであろう。資本制生産様式に構成的なイデオロギーは,この生産様式が搾取と収奪の諸関係であることを隠蔽するだろう。しかし,重要なことは,こうした効果はイデオロギーにおいては,それの社会的実践的効果に支配された形態で存在するということである。資本制的イデオロギーが《否認効果》を産出するとしたら,それは,その社会的実践的効果の生産にそれが不可欠だからである。イデオロギーが,その本性上,《実在》の認識を生産しないということと,それが《否認効果》をもたらすと言うことは全く別の事柄なのである。例えば,アルチュセールは《ヒューマニズム》を弾劾したが,それは《ヒューマニズム》が「越権行為 」をするからであり,自
//page-break_ 88//
らがイデオロギーであり,社会体の認識には関与しないことを明確にすることを要求したのである。
ここで《理論的イデオロギー》という概念を導入しよう。イデオロギーは基底層として《実践的イデオロギー》をもつが,この層を基礎とし,これに一定の反省形態を加えた二次的加工物が《理論的イデオロギー》である。この《理論的イデオロギー》こそが,《否認効果》の生産を担うイデオロギーの層なのである。
《理論的イデオロギー》は,イデオロギーの社会的実践的効果を擁護し,確実にする機能を担い,《否認効果》を生産する。このイデオロギ一層は,実践的イデオロギーの層を「理論的」に超脱 し(détachement),「諸社会や歴史や自然のなかで生起している事柄」を解釈し,これらの事柄についての認識を与えると申し出ることで,あたかも自らが認識の水準に属するかのように装う(振る舞う)のである。イデオロギー水準にあるものが認識の水準へと侵犯することによって《否認効果》は生産されるのである。
ところで,この《否認効果》の生産に関しては,もうひとつのモメン卜を付け加えておく必要があろう。このモメン卜の決定権は科学的認識の側にある。科学的認識は,その成立においてイデオロギー的表象を材料にしなければならない。科学的認識は,イデオロギー的表象とのあいだでの一連の差異化作用の結果として,(イデオロギーとは)全く別種の水準として生産されるのである。したがって,ここでは,イデオロギー的表象は科学的認識の生産と相関的に,その対極として《否認効果》を生産する表象として規定される。科学は,自らをイデオロギーと明確に切断するために,そう規定するのである。
6.認識対象の生産の理論
I
《認識論的断絶》が同一地平に在る二つの《知のタイプ》のあいだの断絶で
//page-break_ 89//
はなく,社会形成体内の全く異なった諸水準間での《断絶/切断 (coupure / rupture)》であるとすれば,換言すれば,イデオロギーの水準とは全く存在地平を異にする(科学という)全く新しい社会形成体のー水準を,その効果として産出する過程が《認識論的断絶》であるとすれば(アルチュセールは,この断絶の結果として,これまで数学,物理学,歴史の科学=マルクス主義の科学,それにおそらく精神分析,という三つあるいは四つの科学の水準が生産されてきたと述べている),この断絶の過程をどのような概念で把握したらよいのか? この断絶によって生産された科学的認識の構造と機能を,どのような概念で把握したらよいのか?
II
アルチュセールは科学的認識の問題 -----アルチュセールが認識(la connaissance)と単に言う場合,それは科学的認識のことを指示している(なぜなら,イデオロギーは認識ではなく,再認 (reconnaissance)に係わっているのだから)-----を科学的認識の生産(la production d'une connaissance)の問題として定義する。生産とは実践(la pratique)であり,実践とは 「所与の素材 (une matière première)を一定の生産物へと変形する総過程 (tout processus de transformation),すなわち一定の人間労働によってなされる変形の総過程 」であり,このなかでは「過程の決定的となる契機(あるいは要素)は素材でも生産物でもなく,厳密な(=狭い)意味での実践すなわち変形労働それ自体の契機であり,これは諸人間,諸手段,諸手段の技術的使用方法を独自の構造のなかで作動状態に置くことである 」(Louis Althusser:1963a)。そして,この変形労働の決定的契機は労働諸手段である(Louis A1thusser:1965et1968b)。(ここでアルチュセールの la pratiqueは, Praxisとしての実践でないことに注意したい。本稿は, Praxisを la pratiqueと区別して,主体の対象化的活動=行為と規定する)
実践(=生産)として科学的認識を把握することは,アルチュセールの社会体
//page-break_ 90//
(の歴史)の理論からの当然の帰結であると言える。アルチュセールは社会体を経済的,政治的,イデオロギー的といった諸実践の水準からなる複合的全体として捉え,そのうち経済の水準が決定的であり,「最終審において」他の自律的な諸水準の構造と機能とに制約を課すと捉えたが,アルチュセールは,この諸水準に(科学的)理論的実践の水準を分節的に結合させたのである。だが独自の実践の水準として科学的実践を定義しなければならない理由を明確にするには,さらに説明が必要だろう。
もし科学的認識が同ーの,例えば《知識》という水準のなかで,前-科学的知識という形態のイデオロギーから,あるいは,それとの切断として構築されるというのなら,科学的認識の生産という概念をイデオロギー的実践という概念と区別されたものとして立てる必要はないであろう。もしそうなら科学はイデオロギーと同じ《知識》という水準に属し,科学とイデオロギーとの関係は《良い知識》と《悪い知識》とのあいだの関係ということになろうし,科学の形成とは,種々のイデオロギー的偏見 ----《悪い》知識 ----- から《精神》を解放し,《自由な解放された精神》-----《良い》知識の作用圏 ----- で世界を《見る》過程ということになるか(これは経験論的実証主義の立場で,《良い》諸表象の(帰納法的)一般化が科学をもたらすことになろう),あるいは前-科学的知識とは異なった《科学的》と自称する知のパラダイムをどこからか持ってきて提示し,このパラダイムによって世界を《見る》過程に解消されるだろう。
しかし,認識論的断絶という概念のなかで考えてきた本稿は,科学的認識の構築は社会体の二つの水準聞に生ずる断絶の結果であることを識っている。科学的認識の構築とは,自らとは異なった社会体のー水準としてのイデオロギー的実践の水準で生産された《世界》についての表象(あるいは諸表象》を出発点に据え ----- なぜなら人はイデオロギー的表象のなかでしか生きられないのだから, この表象より以外の仕方で世界が現われることは,この段階では決してない ----- ,この表象を素材とし,これを批判・解体・変形する現実的・物質的変形労働によって別種の秩序に属する構築物を構築することであり,これ
//page-break_ 91//
によって社会体の一水準(イデオロギー)から他の水準(科学=認識)へと移行することであり,新しい形態の実践を「就任」させることである。したがって,次のニつの理由で《生産=実践》について語ることが必要だろう。1)科学的認識は,一定の認識を獲得するために自らとは全く存在地平を異にした素材(イデオロギー的表象)に働きかけ,それを根源的に変形し,別の秩序をもつ存在地平へと移行する過程の結果であり,この過程は現実的な実践的構造をもっている。科学的認識の獲得とは,すでにどこかに隠されて在るものを探し出し,掘り起こすことでも,無から創造することでもない。 2)こうした実践によって「就任」した社会体のー水準としての科学的認識の水準は,イデオロギーの水準とは全く異なった独自の実践としての構造を保持する。科学的認識は《発見》でも《創造》でもなく,一定の索材を変形する労働の産物であるとするならば,科学的認識の運動には終点も,予め定められた目的もなく,常に,歴史的に与えられた素材の変形があるのみである。科学的認識は目的=終点のない過程である。
III
アルチュセールは科学的認識生産(科学的実践)の構造を,次のような一般的範式でもって提示する。
ここで Gとは Géneralité(一般性)の頭文字で,G1は(科学的》理論的労働の素材, G II は理論的労働諸手段,G III は理論的労働の生産物を指示し,この範式の提示することは G1に G II が働きかけ(労働し),G III へと変形する(生産する)ということである。
この範式がもつ意義をアルチュセール (1963a)に即して検討していこう。
1)(科学的)理論的実践は,第1の一般性である一定の素材 (G I)を独自の(科学的)諸概念 (G III)へと,つまり全く存在の秩序を異にした他の一般性の水準(認識)へと変形することであるが,ここで注目したいことは,この実践の素材が《一般性》として規定されていることである。この規定は全て
//page-break_ 92//
の経験論(とりわけ,その感覚論的変種)を,その基礎から解体してしまうことになるからである。
というのも,経験論(すくなくも感覚論的な)認識論は,出発点に《生の,裸の諸事実》すなわち《客観的所与》,正確に言えば《直接的現前性(l 'immédiateté)》と《単一性(単称性: la singularité)》------《感覚 (des sensations)》と《個体性 (des《individus》)------ とを本質としてもつ存在物を置き,これを「認識」の基礎に据えているからである。これに対してアルチュセールは《一般性》を出発点に置いているのである。なぜ,出発点が一般性なのかは,アルチュセールのイデオロギー論を検討してきた本稿にとって,明らかなことであろう。《われわれに対して現われる世界》を《明証的な生の,裸の諸事実》として受けとることは,一定のイデオロギ一作用の結果であり,こうした《明証的な諸事実》は一定の諸観念のネットワークによって構成された《諸事実》だったのだから。
2)この出発点の G Iは,どのような形態で存在するのか? この形態を把握するには, a)科学的認識が,ひとつの水準として「誕生」する過程と, b)成立後の科学的実践の過程とを区別する必要があろう。
a)科学が初めて成立しようとするとき, GIはイデオロギー的実践によって生産された《諸事実》であり,当該の領域に関連した理論的イデオロギーであろう。しかし,このGIは実践状態にある科学的諸概念を既に宿している。
b)科学が成立した後の過程における G Iは, a)で掲げたもの以外に,科学的諸概念の下で捉えられた科学的《諸事実》と既存の科学の段階で既にある程度は理論的に加工された諸概念(=科学的理論)であろう。
3)端初の G Iは G Illへと,すなわち科学的諸概念へと変形される。この科学的実践の生産物が《一般性》として規定されることについては,不思議に思われないかもしれないが,この規定はへーゲル主義と合理論とに対する批判となっている。
なぜ,へーゲル主義に対する批判なのか? なぜなら,へーゲル主義は経験論を転倒させ,一般的な概念の運動が具体的な実在的存在物を生産
//page-break_ 93//
すると捉えるからであり,さらに,この運動は本質が展開する過程として捉えられるのだから, G Iと G Ilは同ーの本質を宿していると捉えているからである。
では,なぜ合理論の批判となりうるのか? 合理論は認識の生産が具体的実在の生産だとは言わないが,認識過程の外部に存在する実在の本質を捉えると言っている。だが,認識生産の生産物が独自のタイプの《一般性》であり,独自の存在秩序をもっているとするなら,これが実在の本質を捉えるとは,どういうことなのか?
4)では G Illは,どのような形態で存在するのか? ここでも 2)でおこなった区別が必要である。
a)科学が初めて成立する時,この G Illはイデオロギーから切断したばかりの科学的諸概念として存在しており,いまだ色こくイデオロギーの残さいを身にまとっている。イデオロギー的な叙述様式や諸用語を通して科学的諸概念が提示されるのが,ふつうである。科学的諸概念は,未だ実践状態にある。
b)科学が成立した後, G Illは傾向的にはヨリ精級化された科学的諸概念にもとづくものとして存在するだろう。しかし,科学的諸概念を一層確実に鍛えあげていく努力なしには,科学は再びイデオロギーの配下に吸収されていくかもしれない。
5)以上の論議から,科学的実践の過程は徹頭徹尾,《一般性》の領域 ---- すなわち思考の領域・《認識の領域》 ---- で動いていることがわかる。思考の運動は,具体から普遍でも,普遍から具体でもなく,一般性から一般性へと動くのである。マルクスが 「1857年の序説」で《直観と表象を概念へと加工する》と書いたのは,このことであるし,アルチュセールが別のところで《認識対象》と《実在対象》との明確な区別立てを要求したのも,このことを示すためであった。
6)今までの論議ではG Ilの問題が取り上げられなかった。しかし,実践の決定的契機は,このG Ilなのだから,これを検討することは重要である。G Il
//page-break_ 94//
とは理論的労働諸手段であり,一定の諸概念・諸観念からなる形成体としての《理論》,すなわち「科学の全ての《問題》がそのなかで設定される陣地を決定する《理論》」であり, 「科学がその対象において出会った《諸困難》,すなわちその《諸事実》とその《理論》との対面において,また以前の《認識》とその《理論》との対面において,またその《理論》と新しい諸認識との対面において出くわす《諸困難》が,この陣地によって,この陣地のなかで問題として設定される」のである。換言すれば,G Ilとは理論的プロブレマティクである。
7)科学が初めて成立する場合,すなわち《認識論的断絶》の過程がそこで開始される《科学の生誕》の場面におけるG Ilは,当然のことながら当該の科学的諸概念の形成体すなわち科学的理論あるいは科学的プロブレマティクでは絶対にありえない。それは,種々の形態の理論的イデオロギーであったり,他の領域の既に構築された科学の概念的形成体であったりしよう。ここで決定的なことが言えると思う。G IlとG Illとのあいだには決定的切断があるということである。この切断は G IとG Illとのあいだの切断より以上に,重要だと言える。なぜなら,G IとG Illとの間の切断は,G Ilの労働(=作用)によって説明できるとしても, G Ilと G Illとのあいだの切断に関しては説明不可能なのである。この G Ilと G Illとのあいだの切断が指示していることは,イデオロギー水準に属する G Ilに基づいた理論的実践が科学的諸概念の形成体としての G Illという全く成立地平を異にし,全く秩序を異にした生産物を生産したということである。正に,認識論的断絶の効果が突然に「無意識」のうちに生産されたのである。科学的実践とは,(諸)主体も(諸)目的もない過程であり,この過程では G Ilすらも主体とは見なしえない(この過程の形式的作業は,アルチュセールが《徴候的読解》と呼び,J. デリダが《脱構築 déconstruction》と呼んだ作業である)。したがって,認識論的断絶の存在はなかなか理解されないままに残り, G Illに体現され,ここで初めて生産された全く新しいタイプの科学=科学性は,特別の作業なしには全く理解されずに残されよう。 G Illに体現され
//page-break_ 95//
た全く新しい科学(科学性)は,様々な仕方でイデオロギー的に解釈され,その科学としての本性を奪われてしまう恐れすらある。例えば,マルクスは自らが生産した新しい科学を,当時,生成中だった物理学をモデルとした科学観をヘーゲル主義と奇妙な仕方で結合させることによって解釈し,自らが切り開いた地平を台無しにしてしまいそうになったのだし(マルクス主義は西欧マルクス主義とスターリニズムとの狭間で壊滅し,レーニン,毛沢東,キューバ,ベトナム,ニカラグアへと至る革命的潮流のなかで再生する),ガリレオやニュートンは自らの科学をキリスト教神学の体系内で解釈し,ベーコンや論理実証主義者たちはブルジョア経験論的実証主義のイデオロギーのなかで物理学の科学性を解釈しようとした。こうして,こうしたなかから科学を救い出し,その科学性を明確に確定する(その科学性に概念を与える)特別の作業が要求される。この特別の作業こそ,アルチュセールが実践した《徴候論的読解 Ie lecture symptomale》(拙稿:1980の XIVを参照)である。こうした作業によって, G Illの科学性が確定されるなら,その特別のタイプの科学性は,継続する科学的実践の過程で G Ilとして明確に機能していくことが可能となるだろう。
8)科学が成立した後は,G Ilは多少なりとも《科学的理論・科学的プロブレマティク》という形態で存在することになろう。そして,このG IlにもとづいたGI の変形労働は,この過程のなかで同時的にG IのG Illへの変形であるとともに, G lllに体現された限りでの G Il自体のヨリ進化した形態での科学性の確立を生産するだろう(G II の精級化, 問題領域の深化と拡大,等)。こうして,アルチュセールがなしたような特別の作業が,絶えず行なわれ,科学性の絶えざる鍛え直しが行なわれなければならないだろう(科学性は固定点ではなく,絶えず変動していく運動体だろう)。科学性(の基準)の確定とは当該科学の根拠=保証( la garantie ) を提供することではなく,科学へのイデオロギー的介入(イデオロギー的領有)に対して闘い,科学の科学性を擁護し,イデオロギーと科学とのあいだに一線を画し(この境界線は絶えず変動するだろうけれども), 科学的実践の前進を支援することである。
//page-break_ 96//