Marxstat

  蜷川統計学 マルクス主義

アルチュセール的認識論の種別性 実験科学としてのマルクス主義に向かって(2)

2025-01-19 14:25:07
2025-01-20 13:53:34
目次

論文

アルチュセール的認識論の種別性 実験科学としてのマルクス主義に向かって(その2)

山田満

本稿は,関西大学大学院(経済学研究科)『千里山経済学』第 16号 (1982年12月刊行に所収されたものである。ただし,図版等は削除した。上記、タイトルをクリックすると、PDF版が開きます。

7. 認識の科学性の問題

I

これまでの叙述では決定的な問題が問われないままであった。それはG IlおよびG Illの科学性の問題である。正確に言えば,本稿はこの問題を取りあげなかったわけではない。認識論的断絶の効果が理論的実践の過程で生産された時,G Illは《ある種のタイプの科学性》を宿した,換言すれば断絶効果を生産した理論的実践は,そのなかで全く新しいタイプの科学性を生産した,のだからである。

しかし,科学性(Ia scientificité)とは一体,何なのか? 一般に経験論的問題設定のなかでは《科学性》とは科学的説明という特別のタイプの説明を指示していると思われるが,その特徴は,なんらかの法則性あるいは規則性にもとづいて,ある限定された諸現象(=諸表象)を説明することだと言ってよいだろう。ここで問題となるのは,この法則性・規則性にもとづいた説明が当該の諸現象の科学的説明となりうるには,その説明が《客観的》でなければならないということである。ここで実在論は客観的であるということを,この法則・規則が実際に現実の諸現象の実在的諸過程において支配していることだと考え,他方,規約主義や現象学の方向へと向う傾向は,この法則・規則を当該の科学者たちの共通の約束事として,あるいは日常的生活世界に基礎づけられ,社会的あるいは共同主観的に形成されたものとして受け容れ,ここに客観性の根拠づけを求めようとした。しかし,いずれにせよ,これらの論議は《知る主体/認識対象》と《知られる客体/実在対象》との対置構造のなかで動いていることが明らかである。((1)ある法則性・規則性にもとづいて所与のある限定された諸現象を説明すると言う場合に,この現象はなんらかの現象として,例えば経済現象として既に規定されていなければならないことは明らかだ。したがって,これを一定の法則性・規則性にもとづいて説明することは,既に規定さ

//page-break_ 97//

れている(=知られている)限定的な諸現象のこの諸規定を整理・分類・一般化し,より一般的で整序された規定を与える作業であり,この作業を法則性・規則性 ---- 要するに現象の繰り返しにすぎないのだが ---- を検出するという観点から進めることに他ならない。しかし,この作業は《既に知られているものを知る》という再認(la reconnaissance)の作業であり,同義反復であって,この作業が科学的だと言うのは一種の八百長ではないか。(2)実在論も規約主義も,この既に知られている諸現象が《実在対象》それ自体であるというイデオロギ一的明証を受け容れ,この共通の基礎上で,実在論は《認識対象》として主体の意識の内に形成された一定の法則性・規則性の体系を当該《実在対象》自体に実在するものと考え,他方,規約主義は,この法則性・規則性の体系を主体がもっている独自の構造に根ざしたものだと考えるのである。しかし,どちらの場合も,《認識対象》は,これに対置された《実在対象》を自らを測定する究極の絶対的引照点として保持しているのである。)

II

これに対して,アルチュセールは《認識対象》と《実在対象》とを完全に区別し,両者は互いに他に還元することはできず,そのそれぞれはそれに固有の構造と働き(秩序)をもっていると主張した。《認識対象》は科学的実践によって生産されるのであり,この実践は社会体内に複合的に「分節化されつつ結合 (combinaison articulee)され,基礎づけられたところの独自の構造と働きをもった構造化された実践のー水準」なのだから,《認識対象》と《実在対象》とのあいだの関係、は《観念的なもの》(=主体)と《実在的・物質的なもの》とのあいだの関係ではなく,思考(=科学的実践》という社会体の物質的・実在的な一水準と社会体の他の諸水準とのあいだの関係なのである。それゆえ,《科学性》は全く新しい仕方で定義されなければならないだろう。

《(科学的)認識の対象》を独自の生産物として生産する科学的実践は,社会体の相対的に自律的な独自の水準として,それ自身に固有の物質性をもち,

//page-break_ 98//

固有の構造と機能とをもっているのだから,この対象とこの実践とをそれらに外在的な何者かにもとづいて測定することはできない。《絶対的引照点》は存在しないのである。だとすれば《科学性》(の根拠)は科学的実践の内部に,すなわち科学的実践の現実性そのものに求められなければならないであろう。

「…… 思考の秩序に刻まれた具体 Ie concret-de-pensée(第三の一般性: G Ill)がその対象(具体的実在)の認識であるということは,イデオロギーにとってのみの《困難》なのである。このイデオロギーが,この現実性をいわゆる《問題》(《認識の問題》)となし,そうすることによって科学的実践それ自体によって現実的問題の疑いの余地のない解決として,すなわち,ある対象とその認識との関係の非ー問題性としてまさに産出されたところのものを,疑わしきものとして考えるのである 」(Louis Althusser: 1963a)。認識の科学性はそれを生産する現実的・物質的な科学的諸実践そのものの諸条件に照らして説明されなければならないのである。

アルチュセールは,認識の科学性の問題を端的に論証形態の問題とした。科学的実践の生産物が《認識対象》であり,《認識対象》は位階制化された諸概念の形成体であるとするなら,科学的認識の生産とは,この諸概念の形成体を生産することに外ならない。それゆえ,ある認識(=ディスクール〔言説:論述〕という形態をとる)を科学的とする特性(=《科学性》)は,この諸概念の形成体の編成秩序(=諸概念が互いに分節化されつつ結合される際に従う秩序)に求められなければならないだろう。「諸概念が分析のなかで分節化されつつ結合される秩序が……科学的論証の秩序である」。 諸概念が編成される秩序に科学性の形態が刻み込まれるのである。

アルチュセールは,この形態 ---- すなわち論証秩序 ---- を規定するものを理論的プロブレマティク(I e probIematique théorique)と呼び,「存在する理論の有効性の全ての基準(les critères de vaIidité théorique existant)」は,これに結びつけられることによって説明されるとした。

ところで,この理論的プロプレマティクは認識論的断絶の過程で生産され,

//page-break_ 99//

継続する科学的諸実践のなかで絶えず鍛え直されていくのだから,それ自身の固有の歴史をもっと言えよう。ぞれゆえ,存在する理論的プロブレマティクは「認識の歴史における所与の時点」に結びつけられてのみ理解されうる。科学性は,それ自身に固有の歴史性をもっているのである。

さらに,この理論的プロブレマティクは科学性に関する経験論的理論が設定するように,所与の諸現象を説明するために,それに外部から《適用》されるべき《方法》 ---- あるいは《根拠づけ=保証 la garantie》 ---- といったものではなく,こうした所与の諸現象を批判し解体する理論的作業(《徴候的読解》=《脱構築》)のなかで,この諸現象(=イデオロギーの水準)とは全くその存立地平を異にした全く新しい実在の水準(=認識の水準)が生産されるなかで,この全く新しい独自の対象の水準で働く論証秩序の規定因として生産されるのだから,理論的プロブレマティクは,常に領域的 ---- すなわち当該の科学的実践/科学的認識の対象に種別的 ---- ーでなければならないだろう。科学性のタイプは,当該の科学の各々に対して,それぞれ規定されなければならないのであり,各々の科学に各々の独自の《科学性のタイプ》があるのである。例えば,アルチュセールが『資本論』のなかで働く因果性のタイプとして《構造因果性》という全く新しい因果性のタイプを提示したとき,歴史の科学に独自の科学性のタイプが提示されているのである。

III

各々の科学 には,各々に独自の科学性のタイプがあり,その各々の科学性は,それに固有の歴史性をもっている。しかし,どのような科学であれ,科学を科学たらしめるヨリ基底的な科学性の基準はないのか? これを《科学性一般の基準》と呼ぼう。

《科学性一般》というものがあるなら,それは《イデオロギー一般》との対質で浮き彫りになるかもしれない。こうした立場にたったとき,アルチュセールは次の二つを《科学性一般》の基準として提示しているように思われる。

//page-break_ 100//

1)科学的ディスクールは《主体形態》をとらないディスクールである。先に,イデオロギーは世界を行為論的立場から表象すると述べたが,これは全てのイデオロギー的ディスクールは《(諸)主体と(諸)目的》とをもっていること,すなわち《主体形態》をとるディスクールであることを示している。そこで叙述されるのは《(諸)主体と(諸)目的との世界》なのである。これに対して,科学的ディスクールにおいて叙述される世界は,《(諸)主体も(諸)目的もない過程》としての世界である。

2)科学的ディスクールは開かれた問題大系をもつが,イデオロギー的ディスクールは常に閉じている。経験論とイデオロギ一作用について検討してきたことから明瞭だと思われるが,イデオロギーの作用圏のなかでは,「認識」過程は《既に知られているものを知る》あるいは同じことだが《知られるべき結論(絶対的参照点)》 ---- 「認識それ自体によってではなく,他の諸審級によって前もって確定された解答 」(Louis Althusser 1968a, p. 66) ---- が先に与えられており,この結論に基づいて全てが組織され,測定されるからであり,アルチュセールは,これを「イデオロギーの理論的生産様式を特徴づける再認構造(la structure de reconnaissance)」と呼び,あるいは J.ラカンを引いて《la relation spéculaire duelle》と呼んだ。これに対して,科学的ディスクールは,このディスクールを生産する科学的実践が《認識対象》という概念的形成体を文字どおり生産する《主体も目的(=終点》もない過程》であるのだから,聞かれた諸問題と諸解答によって支えられているのである。

8. 認識の《真理性》の問題と《実験科学》としてのマルクス主義

I

科学性(の基準)は,当該の科学的ディスクールの論証形態に求められなければならないとしても,科学的実践が産出する《認識対象》は《実在対象》と

//page-break_ 101//

どのようにかかわるのか? この問題が解かれなければ認識の科学性の問題は解かれたことにならないだろう。

いま,《認識対象》と《実在対象》とのあいだの関係をめぐる問題を認識の《真理性(la verité)》の問題あるいは《客観性(1'objectivité)》の問題として定義しよう。

経験論においては,認識の真理性は《認識対象》と《実在対象》との一致(照応)によって保証された。経験論は,正に,この一致をどのようにして達成するのか,どのようにして根拠づけるのか,をめぐって《認識の問題》を生み出し,動いてきたのである。

ところが,アルチュセールは,この両対象を明確に区別したのであり,したがって認識の《真理性》を全く別の仕方で定義しなければならなかった。《認識の対象》は社会体の物質的・実在的水準としての科学的実践によって生産されるのであって,この実践の固有の構造と働きに従って,固有の秩序に従って形成される諸概念の形成体である。この位階制化された諸概念の結合からなる形成体としての《認識対象》が《実在対象》とかかわる仕方が問題なのである。

アルチュセールは,この問題を《認識対象》による《実在対象》の認識的領有様式(Ie mode d'appropriation cognitive de 1'objet réel par 1'objet de la connaissance)の問題として,換言すれば,ある理論的対象を正に認識とする作用,すなわち《認識作用(I'effet de connaissance)》の問題として定義する。両対象を明確に区別したアルチュセールにとって《認識の問題》は,イデオロギーにとってのみ存在する問題であり,科学的実践の現実においては存在しない問題であったが,この両対象の厳格な区別は全く別穫の問題の設定を許すのである。科学的実践の生産物(認識の対象)が他の何者でもなく《認識》という特性をもった対象であるとするなら,それは《実在対象》の認識を可能にさせるものでなくてはならない。《実在対象》の認識とは,《実在対象》を,それを形成する固有のメカニズムに沿って説明することである。

//page-break_ 102 //

マルクス主義の科学(史的唯物論)を例にとろう。マルクスの『資本論』は《資本制生産様式に固有の社会作用の生産(=社会形成)のメカニズムの理論 (la théorie du méchanisme de production de《1'effet de societé》propre au mode de production capitaliste)》 ---- 《1'effet de societé》とは,ある物体を正に社会として機能させうる作用(社会として存在させる働き)を指示する ---- であるが,この理論の対象である《資本制生産様式》は決して実在対象ではなく,認識対象という位階制化された諸概念の分節的結合からなる概念的形成体である。資本制生産様式とは,ひとつの概念であり,科学的実践の生産物としてのみ実在するのであって,この実践から切り離されて,どこかに存在しているのではない。科学的実践は《実在》に科学的(理論的)対象(認識の対象)という新しい実在の領域,すなわち科学的知という新しい領域を加えるのである。 P. マシュレーは,このことをハッキリと書いている。

「科学は,その諸対象に厳密な意味での解釈(une interprétation)を与えるのではない。科学は,諸対象を変形し,それらにそれらが初めには所持していなかった表意作用 (une signification)を与えるのである。《落下する》物体の運動のなかには重力の法則を支えるどのような使命(召命》もないし,ましてやこの法則に従わなければならないというどんな召命もない(自然は,王のいる王国ではなく,この王の諸法則(法律)に従うことなどないのだ)。物体は今も昔もかわりなく落下しているが,この法則を言表 (énoncer)することはない。この法則を生産するのは,知(Ie savoir)の使命なのであった。すなわち,この法則は落下する物体のなかに在るのではなく,その傍らに全く他の領土のうえに出現するのであり,この「他の領土」とは科学的知の領土なのである。あらゆる経験論の失敗がでてくるのは,ここからであり,あらゆる経験論は経験から教訓を引き出そうとし,世界は沈黙しているというのに《世界の寓話》を聴き取り,引き出そうとするのである。もはや経験的(pratique)ではなく,理論的な,こうした変形(cette transformation)は,究極的にこれが適用される実在をそのままにさせておく。この変形は実在を脱現実化するので

//page-break_ 103//

も,実在をその諸起源、や深層の意味に連れ戻すのでもなく,実在に新しい次元を与えるのである。」(P. Macherey: 1966, p. 173-174)。

ここでマシュレーが書いていることが《認識対象》と《実在対象》との厳格な区別で指示されていることであるのだが,しかし物体の落下の法則(科学的認識の対象)が実在の物体の落下を,その固有のメカニズムに沿って説明するように,資本制生産様式の構造と働きの理論(概念)は実在的な社会体の構造化(と諸変形》のメカニズム ---- すなわち,この社会体を資本制社会形成体とする社会作用の生産(=社会形成》のメカニズム ---- を,その固有のメカニズムに沿って説明できなくてはならない。資本制生産様式の理論は,実在的な社会体を正しく社会体とする社会形成の「実在的メカニズム」を,この実在的な社会体の社会作用の生産のメカニズムの全ての効果を把握する(しうる)《認識対象》(=特定の《資本制社会形成体》の概念)を生産することによって説明するのである。当該の実在的な社会体の社会形成のメカニズム(実在対象)は,それに相関した例えばフランスだとか南朝鮮といった《社会形成体》の概念(認識対象)によって,すなわち,この対象を構成する諸概念の位階制化され,分節的に結合された全体のなかに諸概念の秩序として刻まれた社会形成のメーカニズムとしてのみ存在しており,このメカニズムによって説明されるのである。マシュレーに従って言い直せば,今も昔も変わりなく資本制社会体は社会形成され続けているが,社会形成のメカニズム(概念)は,この社会体のなかにあるのではなく,その傍らに,正確に言えば,この社会体の独自の水準を構成している科学的実践の水準のなかに《社会形成体》の概念として存在しているのだ。実在的な資本制社会体は今も昔も社会形成され続けているが,社会形成のメカニズムは《知 Ie savoir》のなかにしか実在しないのだ。イデオロギーは,この実在的社会体の社会形成に自ら関与しつつも,あるいは関与するためにイデオロギーに固有なやり方で社会形成のメカニズムを《イデオロギー的知》のなかで与えてきたのだし,科学は科学に固有なやり方で《科学的知》のなかでこのメカニズムを与えてきたのである。

//page-break_ 104//

それゆえ,問われなければならないことは,イデオロギーとは区別された科学に固有なこのメカニズムの説明形態(=論証形態)である。本稿が,《その固有のメカニズムに沿って》という不明瞭な一節で指示しようとしたのは,このことである。「マルクスの理論的実践によって生産された諸認識の《真理性》の基準は,この理論的実践それ自体のなかで,すなわち論証的価値(la valeur démonstrative) ---- この諸認識の生産を確保した(論証の)諸形態の科学性の資格によって提供される」(Louis Althusser: 1968a, p. 72)。こうして《真理性》の問題は,《科学性》の問題と同ーのものとなり,同ーのやり方で解決されるのである。

II

認識の《真理性》は,科学的ディスクールの論証形態の《科学性》によって確保されるとしても,《認識対象》が《実在対象》の認識であるということの説明としては不十分でないかという《不安》が残るかもしれない。伝統的にマルクス主義は《実践の基準  le critere de la pratique)》テーゼをたててきた。認識が真理であるかどうかは《実践》が証明するだろう。認識が「首尾よく適用され」所期の目的が達成されるなら,その認識は《真理》であることが証明されよう。このテーゼを無効にするのは簡単なことだから,無視して先に進もう(例えば,《ロシア革命》はマルクス主義の《真理の証明》なのか,《破産宣告》なのか? あるいは,ある政党の《政治綱領》・《行動方針》がその実践によって棄却されたためしがあったのか? )。

本稿で重要なのは,この《実践の基準》テーゼをアルチュセールが読みかえ,そこから重要な諸帰結をひき出しているということである。アルチュセールは,このテーゼ、をプラグマテイズムにすぎないと論断し,「理論が首尾よく適用されたとすれば,それは理論が真だったからだ」と断言し,このテーゼを転倒させてしまうのであるが,同時に全く新しい仕方で,このテーゼを復権させるのである。

//page-break_ 105//

《実践の基準》テーゼは《実践の優位性(Ie primat de la pratique)》テーゼと結びつけられ,この後者のテーゼは,「社会的存在の全ての水準は経済的,政治的,イデオロギ一的,技術的,科学的(あるいは理論的)といった種々の実践の場である」ことを指示するテーゼとして読まれる。このテーゼから次のテーゼが導出される。科学的実践は社会体の一水準として存在しており,「この水準は,それが変形する対象(素材)のタイプ,それが働かす労働諸手段のタイプ,それがそのなかで生産する社会的ー歴史的諸関係〔理論的生産諸

関係と呼ばれるもの〕のタイプ,そして最後に,それが生産する対象のタイプ(諸認識)によって,他の諸実践から区別され」(Louis Althusser: 1968a, p. 71),それに固有の構造をもっている。この独自の構造をもつ科学的実践は,この実践自体の内部にこの実践を支える固有のメカニズム・秩序・基準をもっており,したがって,この実践の生産物である諸認識を認識たらしめる固有の基準をその内部にもっている。だから他の諸実践によって,この生産物を評価・測定することはできない。「どんな数学者だって,ある定理が論証されたと公言するのに,物理学がそれを真であると論証(vérifier)するのを待つてはいないだろう。たとえ数学の全ての部分は物理学に適用されるとしても。数学の定理の《真理性(la vérite)》は 100パーセント,数学的論証の実践に純粋に内在した諸基準によって,それゆえ数学者の実践の基準,すなわち存在する数学の科学性が要求する諸形態によって提供されるのである 」 (Louis Althusser: 1968a, p. 71-72)。こうして,アルチュセールは《実践の基準》テーゼを読みかえ,《科学的実践への実践の基準の根源的内在性(l'intériorité radicale du critère de la pratique à la palatique scintifique)》テーゼを導出するのである。

III

今,この内在性テーゼを導出したさい,数学の例が引かれたが,同じことは《実験所科学》や《マルクスの科学(史的唯物論)》についても同様に

//page-break_ 106//

言える。

《実験諸科学》の場合,その真理性の基準は「それらの理論的実践の基礎となっている実験である 」。ここで《実験(1 'experimentation [仏]/Experiment [独]》とは, G.バシュラールが《現象一技術(Ia phénoméno-technique)》と呼んだ理論的実践のー形態であり,所与の実在対象との照合などといった経験論のテーマとは全く関係がない。すなわち,《実験》とは,一定の理論(ないし諸理論)と諸技術のもとに厳格に管理された理論的ー技術的空間のなかで,一定の理論的諸結論を物質化=実現化させる理論的な操作・技術・評価の総体なのであり,徹頭徹尾,理論(的実践)に内在的な作業なのである。したがって,実験データによる理論の《真理性》の確証とは,徹底的に理論に内在した基準によって評価され組織される作業なのであり,理論的実践に内在化された基準にもとづく確証手続きなのである。

では,史的唯物論についてはどうか? アルチュセール(派)は,史的唯物論を《歴史の実験科学(la science experimentale de l'histoire)》(M. Pêcheux: 1975, p. 188)と規定し,「階級闘争をその実験室とする 」(Louis Althusser: 1973, p. 35)という決定的テーゼを提出している。

これは,イデオロギーの作用空間の内部で全てが処理される《再認/否(誤)認 (reconnaissance / méconnaissance)》の実践の効果としての《経験(l'experience/Erfahrung)》に絶対的基礎を置く,全ての実践(この実践の形態は必らず《主体形態》をとり,主体の活動として存在し,営なまれる)---- 例えば,理論的イデオロギーの「生産」とか政治的実践の経験主義的・自然発生的形態 ---- から決定的に区別された,《主体も目的もない過程》としての科学的実践(認識の唯物論的過程)の作用空間内で組織されることろの,「(概念的ー科学的に機能する)あらゆる疎遠な付属物の外側で,当該科学の客観性

がそのなかに存する諸装置(les dispositifs)において諸概念形成体(Ie corps des concepts)を実現する」(M. Pêcheux: 1975, p.178)《実験(l 'experimentation/ Experiment)》という,《実験》の定義 ---- 先に述べた定義

//page-break_ 107//

---- にもとづいたテーゼである。この実験の定義にもとづけば,《史的唯物論は階級闘争を実験室とする》というテーゼを理解することが可能だろう。すなわち,史的唯物論の理論にもとづいて,階級闘争状況としてこの理論によって定義された実在的社会形成の総過程へと介入し,このことによって正に,この社会形成の総過程を史的唯物論の科学的理論の《実験場》として(再)定義し,この理論にもとづいて特定の歴史的状況下での特定の社会体の社会形成(社会作用の生産)の総過程を変形していく過程が,正にこの理論の実験過程であり,この過程を自らの科学的実践の過程の内部に内在化させることによって,史的唯物論の理論(《認識の対象》を構成する諸概念)は絶えず鍛え直され,深化していくということ(理論の深化過程と社会体の変形過程との一体化),このことをこのテーゼは指示しているのである。こうして,史的唯物論は特別の形態をとった《実験科学》として定義されることができ,この理論にもとづく実在的社会体の社会形成の過程への介入によるこの社会体の変形過程が,この理論の実験過程として定義されるようになるのであるが,こうした史的唯物論の再定義はマルクス主義的政治の決定的再定義を可能とする。なぜならば,実在的な社会形成の過程への介入とは,社会体を変形する正真正銘の《政治的実践》であり《階級闘争》であるのだから,正に「マルクス=レーニン主義の政治的実践は,本当の《歴史的な実験》(E.バリバール)を構成する」(M. Pêcheux: 1975, p. 188)ことになるからである。

これは,全く新しい政治(的実践》の次元を切り拓くのであり,この政治的実践は, 「ブルジョア・イデオロギーの支配の下で政治的経験としてその形を整える経験主義的・自然発生的政治実践」と一線を画し,全く一新しいタイプの政治組織と政治スタイルを産出するの

である。

さらに実験科学としての史的唯物論という規定は,マルクス主義を科学であると同時にイデオロギーとしても規定しなければならないことを示している。科学的諸概念はマルクス主義的イデオロギーへと変形されなければ,政治的実践を指導し,マルクス主義的政治実践として実現されえないからである。

//page-break_ 108//

9.結論にかえて:《実験科学》としてのマルクス主義:《ズレ》の問題設定:

      階級闘争(大衆反乱)と認識論的断絶:認識生産様式の理論の方へ

認識生産の理論としてのアルチュセール的認識論は,認識生産過程すなわち認識を生産物として生産する理論的実践への注目と,この実践に固有の構造と作用への徹底的内在化を特徴としていた。しかし,この内在化戦略は,決して社会形成体の他の諸実践の水準との「有機的諸関係」(Louis Althusser)という問題を排除するものではなかった。先述のように,マルクス主義(史的唯物論)を《実験科学》と規定することは,この科学の実践そのものが社会形成体の再生産=変形過程に,すなわち政治的・イデオロギー的・経済的諸階級闘争 ---- ある社会形成体を構成する支配的生産様式を他の生産様式へと変形する総過程を統轄する実践を《政治的実践》と規定するなら,政治的実践 ---- に介入し,これをこの科学的実践に内在する《実験場》として統合することを意味していたからである。マルクス主義の科学的実践は社会形成体を構成する他の諸実践との「有機的結合」なしに,すなわち他の諸実践の作用諸空間としての社会形成(社会作用の生産》の総過程に介入し,これらを《実験場》として自らの内部に統合,内在化することなしに存在しえないのである。

これは,マルクス主義の科学によって武装された特別の政治諸組織(決定的実験装置としての)にもとづく社会形成の諸過程への介入という場面にだけ限定されるのではない。多くの場合,この政治諸組織の諸実践とは全く関係のないところで(この諸組織の実践が全く効力をもちえなかったり,この諸組織自体が明確な形では存在していない場合),「自然発生的過程」として社会形成の総過程は作動しているのであり,この社会形成の総過程の複合的動力学は,《日常的な諸経験(des experiences ordinnaires)》,とりわけ例外的諸事

//page-break_ 109//

件の《諸経験 (des experiences)》という形態をとって科学的実践のなかに介入してくるだろう。こうした《諸経験》は,ブルジョア・イデオロギーの作用空間のなかで,イデオロギー的ディスクール〔言説〕のなかに刻まれた《諸経験》として与えられ,介入してくるかもしれないし,多少なりとも科学的ディスクールの作用の影響を受けて形成された《諸経験》かもしれない。あるいは科学的実践が全く「予期」もしなかったような例外的な諸事件の《(物理的)衝撃力》として科学的実践のなかに「直接的 」に介入してくるかもしれない

(これは明確な形態での《諸経験》として組織(分節化)されない《驚き》といったものになるかもしれない)。しかし,どのような形態であれ科学的実践のなかへの《諸経験》(=実践状態にある科学的諸概念)という形態での社会形成体の他の諸水準の介入は,科学的実践のなかで科学的実践の《素材 (G I)》として据え直され,批判・解体・変形させられ,科学の概念的形成体のなかに新たな諸概念として,あるいは既存の諸概念の(体系の)訂正という形態で統合されなければならない。すなわち,これは決定的に重要なことだが,こうした《諸経験》が科学的実践のなかに,このような形態で統合されることによって,社会形成体の諸過程(諸実践)は,「事後的 」にではあるが,マルクス主義の科学的実践に統合された《実験場》として規定しかえされるのである。

こうして, E.バリバール (E. Balibar: 1974)が強調してやまなかったように,マルクスの有名な《フランス三部作》やエンゲルスの「ドイツ農民戦争 」,や他の種々の「《メシのため》の論文は,史的唯物論の理論的実験室」となったのだし,パリ・コンミュンという歴史的事件は,マルクス主義とは異なった諸党派・諸理論が関与した事件であったにもかかわらず,史的唯物論の《真の歴史的実験 (une véritable expérimentation historique)》を構成することになり, 《『共産党宣言』の訂正(Ia rectification)》という形で史的唯物論の諸概念(理論》の訂正をもたらしたのである。このように《実験科学》としての マルクス主義の特徴づけは,社会形成の過程に関与する他の諸実践への史的唯物論(科学的実践)の介入という形態を許すこともに,この科学的実践への

//page-break_ 110//

他の諸実践の介入という形態(経験という形態をとる)をも許すのである。この双方からの介入という事実こそが,科学的実践の成立条件である。アルチュセールは,「『資本論』からマルクスの哲学へ」のなかで,このことをハッキリと書いている。以下,長くなるが引用しておこう。

「科学的実践への実践の基準の根源的な内在性は,どんな制限もなしにその値打ちがある諸科学における(科学以外の)他の諸実践との有機的諸関係を少しも排除するものではない。こうした(科学以外の)他の諸実践は諸科学にその素材の大部分を提供するのだし,時には諸科学の理論構造に多少なりとも深刻な手直しを引き起こすまでになるのだ。……誕生の途上にある諸科学においては,いわんや,未だイデオロギー的《認識》によって支配された諸領域においては,他の諸実践の介入は,しばしば一定の決定的役割を演ずる。その役割は革命的ですらありうる。……しかし,そこでは,未だイデオロギー的な,あるいは科学に生成しつつある理論的実践の陣営のなかへの一定の実践の介入様式を平等主義的な実践観 (une conception égalitariste de la pratique)のなかに紛らしてしまうことは,もはや問題となりえない。同様に,この介入の正確な働き,とりわけ,この介入が実行される(理論的)形態を紛らしてしまうことは問題となりえない。……マルクスのもっとも情熱的な,最も個人的な実際的な諸経験(les experiences pratiques)(『ライン新聞』で「実利的な諸問題に係わった」論争の彼の経験,パリのプロレタリアートの最初の闘争諸組織の直接の経験, 1848年における革命の経験[革命的経験 son experience révolutionaire])は,彼の理論的実践のなかに介入し,イデオロギー的理論的実践から科学的理論的実践へと彼の理論的実践を移行させる大変動のなかに介入したのである。

しかし,これらの諸経験が彼の理論的実践のなかに介入したのは,経験の諸対象,さらには実験の諸対象という形態の下であった(sous la forme d’objets d'experience, voire d'experimentation)。すなわち,新しい思考の諸対象,《諸着想 idees》,それから諸概念の形態の下であって,これらの突発的出現が他の(ドイツ哲学やイギリス経済学に由来した)概念的な諸結果との

//page-break_ 111//

その結合(combinaison / Verbindung)のなかで,それまで彼がそれに基づいて体験してきた(すなわち思考してきた),未だイデオロギー的な理論的基盤を激変するのに貢献したのである」(Louis Althusser: 1968a, p. 72-73)。

II

今,引用したアルチュセールの言説は,圧縮された形で全てを言っていると考えるが,いま少しのことを付け加えておきたい。

引用文中でアルチュセールは《諸経験》について語っているが,《諸経験》とは一体,何なのか? 諸経験とは,常にイデオロギーの作用空間のなかに刻み込まれているのではないか?  確かに,一度,科学が誕生した後には,事情は若干,変化してこよう(しかし,この場合には,諸経験ではなく,諸実験という新しい形態が語られるようになることを意味しているかもしれない)。しかし,科学が誕生する以前には,どうか?

科学は経験から始めなければならないとしても,経験から科学が導出されることは決してない。科学は経験の批判・解体・変形でなければならないのだから。こうした問題は,イデオロギーの問題に結びつく。問題を再定式化すれば,科学はイデオロギーを出発点として,そこから出現するけれども,イデオロギーから科学を導出することは決してできない。科学の出現過程とは,無意識的過程,すなわち《主体も目的もない過程》のなかでイデオロギーと断絶する (こう言ってよければ,差異化する=ズレを産出する)過程なのだ。

イデオロギーの問題に戻ろう。イデオロギーは国家の諸イデオロギー装置の作動のもとで,文字どおり社会に対して全面浸透的に作用を及ぼし,諸個人を社会形成体の諸機能を然るべく支えうる諸主体へと変形する。問題があるとすれば,ここである。イデオロギ ー ---- 支配的イデオロギーと呼ぼう ---- が,このように完全で全面浸透的であるならば,社会形成体の変形を語りえなくなるのではないか? 少なくも,階級闘争の問題としては語りえなくなるのではないか? 国家装置としてのイデオロギー装置という規定は,イデオロギー装置

//page-break_ 112//

の掌握をめぐる問題が階級闘争の場であることを示したが,階級闘争をどう説明するのか? 確かに階級闘争とは《主体も目的もない「無意識」の過程》であるが,全てが《うまく運ぶ》ならば闘争について語れなくなるのではないか? 正確に言えば,国家のイデオロギー装置を掌握した支配階級の階級闘争のみが在るだけで,被支配階級は従順な臣下(sujets)となろう。被支配階級は彼/彼女らの階級闘争を闘えないのである。

周知のように,こうした事態に直面したとき,社会学的=人間学的問題設定は《社会化 (socialization)》と《社会化されざる部分》という対置を持ちだし,この《されざる部分》を根城にして社会変動を説明しようとする。こうした問題設定と断絶したアルチュセール理論は,どう難局を乗り切っていくのか?

アルチュセール(派)が提起した社会・歴史理論上の決定的概念のうちのひとつは《ズレ (décalage)》という概念である。《ズレ》の問題設定が全てを決する。

III

誤まって理解されがちであるが,ここで《ズレ》とは,広く流通している史的唯物論上の誤まった問題設定としての《照応ー非照応》テーゼにおける《非照応》の等価物ではない。《ズレ》の問題設定は,これとは全く地平を異にした問題領域に属する。

確かに,《ズレ》という概念は,移行期における社会形成体の編成様式を特徴づける概念として決定的意義をもっており,この点は強調されなければならない。しかし,これを強調しすぎることは,《ズレ》の問題設定の独自性を把握しそとなう恐れがある。

《ズレ》とは,移行期に特有の問題でないことを確認することが重要である。《ズレ》とは,社会形成体/生産様式の編成株式 (mode d'articulation)を特徴づける問題であり,この編成様式とは《ズレ》の編成様式なのである。

//page-break_ 113//

社会形成体/生産様式における諸水準の編成は,《ズレ》に基づいた編成である。

決定的に重要なことは,この《諸ズレ (décalages)》こそが社会形成体の編成原理であるとともに,社会形成体という《自動諸機械》を動かす《根源的力》だということである。正確に言う必要があろう。原動力は階級闘争であるが,階級闘争は《諸ズレ》を媒介にしなければ動きださない。生産諸関係=搾取諸関係=階級諸関係が,《諸ズレ》を規定していくのだが,《諸ズレ》は,社会形成体の編成の原理であり,作動原理なのである。(アルチュセールが《脱一中心化された構造》について語ったとき,そこでは《諸ズレ》が語られている)

IV

E. バリバールが「史的唯物論の根本的諸概念について」 (E. Balibar:1968)で,この《ズレ》の問題を扱ったとき,そこで問題とされていたのは,《経済的諸関係》と《法的諸形態》との《ズレ》 ---- 社会的生産諸関係とその法的表現との《ズレ》 ---- であった。経済審級と法審級という「二つの異質的な審級間の分節化された結合(articulation)」に含まれる《必然的ズレ》の問題が,そこでは扱われていたのである。このバリバールの問題は,先の《イデオロギーの問題》を考える上で決定的である。

論議を簡単にして進めよう。資本制生産様式は,その構造化と機能作用のために各種の法的諸形態と法イデオロギーを必要とする。法イデオロギーは諸個人を法主体 ---- 自由で権利のうえで平等な契約主体かつ所有主体 ---- へと変形することで,資本制生産様式の諸機能の支え手としての基礎資格を有する諸主体を生産する。そして,この同じ過程で,搾取と収奪の関係は隠蔽される。

しかし,隠蔽されるとはいえ,諸主体は法主体の形態の下で,彼/彼女らの経済的諸条件としての搾取と収奪の関係を生きる。だから,この法形態と経済的諸関係との《ズレ》は効果をもつ。搾取と収奪の関係(階級諸関係)は法イデオロギ一的諸関係のなかへ介入し(効果を及ぼし),法イデオロギー形態の下

//page-break_ 114//

で《主体化》された《諸個人》の《主体形態》を揺るがす。自由で平等な関係という表象は,工場の専制と経済的「不平等」という現実の前に揺らぐ。要するに,国家の諸イデオロギー装置の作動の下で生産された諸イデオロギ一作用は,他の諸水準とのあいだにある《ズレ》を動力として現実的諸関係によって反撃される。イデオロギー的明証に対する反撃 (répercussion)。

この反撃は,いわゆる《良い主体 (bon sujet)》に対する《悪い主体 (mauvais sujet)》を生産する。諸支配的イデオロギーの明証性に対する「不信」は,自らの《主体性》への「不信」となり,諸支配的イデオロギー及びそれが(を)支える支配体制に対する《対抗ー主体 (contre-sujet)》の形成となる。すなわち,諸支配的イデオロギーが指定する諸イデオロギー的位置に自らを同一化させることへの抵抗。

この抵抗は,諸支配的イデオロギーが産出する種々の「支配的・体制的」言説(discours)に対抗する種々の《論弁的反抗 (discours-contre)》(すなわち《対抗一言説 (contre-discours)》)を生産する。しかし,この生産に対抗して「支配的・体制的」言説は強化され,多様化され,抵抗そのものを「支配の制度」のなかに取り込もうとする。こうして,すべては動きだし,社会形成は諸主体聞の闘争場となる。(ここでは,諸支配的イデオロギーが内蔵する《競争原理》の問題は考慮の外におく。この《競争原理》の発動は《対抗ー主体》・《対抗ー言説》の組織化に対する最も有効な攻撃原理のひとつである)

しかし,この《対抗ー主体》・《対抗ー言説》の形成は,諸支配的イデオロギーの呼びかけ( l'interpellation ) に対応した然るべくイデオロギー的位置への同一化拒否に基づいており,このことはこれを受け容れ,支持しょうが拒否しょうが,全てはこの諸支配的イデオロギー形成体の地盤のうえで生ずることを意味している。例えば,先の例で言えば《自由で平等な人間関係》というイデオロギー的表象に対する「工場の専制」と「経済的不平等」という《現実》 ---- 《現実》がこのように表象されること自体がイデオロギーの照り返しの結果である(正確に言えば諸水準間の《ズレ》という概念で語るべきなのだが)----

//page-break_ 115//

による反撃は,逆説的にも《人間存在・人間関係は自由で平等であるべきだ》という人間主義の立場からの《現実》の批判となる(この批判への対抗として《強者の論理・勝者の論理》が,イデオロギーに照り返された《現実》に依拠して現われる)。要するに,支配的イデオロギーの地盤の上で,すべての闘争が動きだすのである。改良主義・極左主義・保守派・反動派 … …

V

科学の問題に戻ろう。科学的認識はどこから出現するのか? 支配的イデオロギーは全面浸透的だが,社会形成体の諸水準閣の《ズレ》がこのイデオロギーの配下に種々の《対抗的イデオロギー》を生産し,イデオロギー闘争の場面を産出する。支配的イデオロギーは,これによって異化され続けていく。

この場面で,様々の《世界 》に対する「解釈」が生まれ,それらは理論的イデオロギー(理論的ディスクール)として沈殿されていく。しかし,この場面での《知の実践》はイデオロギーの作用圏内にあり,ここから直ちに科学的認識が成立するとは言えない。だが,科学的認識の生産は無から創造されるのでないのだから,この理論的イデオロギーの地層を出発点としなければならない。科学的認識の領土は,既に理論的イデオロギーによって住まわれており,種々の難問やイデオロギー的諸対象として,換言すれば実践状態にある諸概念として存在している。科学的認識の生産は,この実践状態にあるものを理論化することであるが,科学が未だ形成中の場合には,この過程は全く「無意識に」なされると言うしかない。科学的認識の生産(科学的実践)は主体も目的もない過程である。ここまでは,問題はない。

問題は,では全ては《知(I e savoir)》のなかで進行するのか? ということである。先に,イデオロギーを問題にした時に,イデオロギー闘争(イデオロギー的階級闘争)を引き起こすのは社会形成体を構成する諸水準聞の《ズレ》であるというテーゼが提出された。換言すれば,イデオロギー闘争はイデオロギー水準に対する他の水準の介入の効果である。しかし,このイデオロギー

//page-break_ 116//

闘争は科学的認識の生産をもたらさない。この闘争は,支配的イデオロギーの場そのものを解体しないからだ。支配的イデオロギーは,この闘争によって異化され続けるが,科学は,これを解体することでしか出現しない。

しかし,イデオロギー闘争のなかで形づくられていく「理論的」な《対抗ー言説》は,今度は逆に政治や経済の水準に打ち返し,そこで様々の歴史的事件を引き起こす。そして,この歴史的諸事件は再度,イデオロギー水準に介入し,イデオロギ一作用の空間を異化することになろう。この異化の過程は,理論的イデオロギーの形態の下で《実践状態にある科学的諸概念》の諸要素を生産していくだろう。科学的認識の生産とは,こうした社会形成(に内在する諸闘争)の総過程が,恐らく「ある例外的で革命的な」諸事件としてイデオロギーによって認知されうる諸事件を引き起こすのを決定的契機として,理論的イデオロギーの生産過程に決定的な地殻変動を引き起こすことで出現するだろう。

科学的認識とは《知》の作業だけれども,《知》のなかにとどまっていては生成も完結もされえない。社会体の諸水準聞の相互的介入が,その生産には決定的効果をもつのであり,社会体におけるその位置=立場を常に確認する作業が絶対不可欠である。そして,理論の領域で,科学的認識の生産を捉えるには,史的唯物論の領土でこれを把握することを許す《認識生産様式の理論》の方へ進む必要がある。

(1983年 2月14日,最終校正)

参考文献

本稿の論議の基礎づけに関与した文献と本稿で引用した文献のみを掲げておく。したがって,科学哲学や科学史関係の文献,等は省略する。

1) Althusser, Louis (1960)《Sur Ie ]eune Marx》, in Althusser, L. (1965)

2) Althusser, L. (1963a)'Sur la Dialectique Materialiste', in Althusser, L. (1965)

3) Althusser, L. (1963b)'Marxisme et Humanisme', in Althusser, L. (1965)

4) Althusser, L. (1964) ‘Freud et Lacan', in Althusser, L.(1976)

5) Althusser, L.(1965) Pour Marx, Maspero, paris.

6) Althusser, L.(1965 et 1968a) ‘Du Capal à la philosophie de Marx', in Althusser, L. et E. Balibar, Lire Ie Capital  tome I, nouvelle édition, entierment refondue, Maspero, Paris, 1968

//page-break_ 117//

7) Althusser, L.(1965et 1968b) ‘ L'objet du Capital', in Althusser, L. et aI., Lire Ie Capital I et II, Maspero, Paris, 1968.

8) Althusser, L. (1969-70) 'Ideologie et Appareils Ideologiques d'Etat', in Althusser, L.(1976)(訳『国家とイデオロギー』西川訳,福村出版, 1975)

9) Althusser, L. (1973) Réponse à John Lewis, Maspero, paris. (訳:『歴史・階級・人間』西川長夫訳,福村出版, 1974)

10) Althusser, L. (1974)Element d'anto-critique, Hachette, Paris.

11) Althusser, L. (1975) ‘Soutenance d'Amiens', in Althusser, L. (1976)

12) Althusser, L.(1 976) Positions,Ed. sociales, Paris.

13) Balibar, Etienne (1965 et 1968) ‘Sur les concepts fondamentaux du materialisme historique', in Althusser L. et Balibar, E., Lire Ie Capital  II, Maspero, Paris, 1968.

14) Balibar, E (1974) Cinq Etudes du Materialisme historique, Maspero, Paris. (訳・『史的唯物論研究.II,今村仁司訳,新評論, 1979)

15) Balibar, E. (1978) ‘From Bachelard to Althusser', in Economy and Society, Vol. 7, no.3

16) Bennett, Tony (1979)Formalism and Marxism, Methuen, London.

17) Brewster, Ben (1976) ‘Fetishism in Capital and Reading Capital', in Economy and Society,
Vol. 5,no. 3.

18)Center for contemporary Cultural Studies(1977) On Ideology, Huchinson,

19)Coward, Rosalind and John Ellis (1 977) Language and Materialism, R.K.P,  London, 1978.

20)クララ・ダン(1975)「マルクスからピアジェに至る経験論と実在論 」,ジャック・モノー他著『科学論とマルクス主義』,福村出版

21)J. M.エディ(1980)『ことば、と意味』 滝浦静雄訳,岩波書店。

22)Hirst, Paul Q.(1979)On Law and Ideology, Macmillan, London.

23)今村仁司(1981)『労働のオントロギー』,効草書房

24)Karsz, Saül (1974)Théorie et Politique :  Louis Althusser,  Fayard, Paris.

//page-break_ 118//

25) Larrain, Jorge (1979)The Concept of Ideology, Huchinson, London

26) Lecourt, Dominique (1969)L'épistemologie historique de Gaston Bachelard, Vrin, Paris.

27) Lecourt, D. (1972)Pour une critique de l'épistemologie, Maspero, Paris

28) Lecourt, D. (1973) Une crise et son enjeu, Maspero , Paris.

29) Lecourt, D. (1981) L'ordre et les jeux , Grasset, Paris

30) Macherey, Pierre (1966) Pour une théorie de la production littéraire, Maspero, Paris.

31) Macherey, P. (1976) ‘L'histoire de la philosophie considerée comme une lutte de Tendences', in La Pensée, no.185.

32) Mattews, Michael R.(1980) The Marxist Theory of SchoolingA Study of  Epistemology and Education,  Harvester, Brighton.

33)Pêcheux, Michel (1975)Les Vérités de la Palice, Maspero, Paris.

34)Rancière, Jacques (1965) 'Le concept de critique et la critique de I'économie politique de <Manuscripts de1844> au <Capital>',  in Rancières,J., Lire Ie Capital  III , Maspero, Paris, 1973

35)Therborn, Göran(1976) Science, Class & Society, NLB, London.

36) Therborn, G. (1980)The ideology of power and the power of Ideology, NLB, London.

37) Rey, Pierre-Philipe (1972) ‘Materialisme historique et luttes de classes', in Les Alliances de Classes, 1973, Maspero, Paris.

38) Raymond, Pierre (1973)Le passage au materialisme, Maspero, Paris.

39) Williams, Karel (1975) ‘Facing Reality: A Critique of Karl Popper's Empiricism, in Economy and Society, Vol. 4, no.2

40)山田満 (1978 and 1980) 「イギリスにおけるアルチュセール学派の形成と定着(1),(2)」, 『千里山経済学』 no.12-2 et no.13-1.2.

//page-break_ 119//

この記事を書いた人

marxstat

Monthly Review の古くからの読者、蜷川統計学、マルクス主義、アルチュセール、実験科学としてのマルクス主義(介入の科学としてのマルクス主義) 連絡先:marxstat@critique.sakura.ne.jp 関連するブログ:日々雑感 https://critique.sblo.jp/